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福井地方裁判所 昭和62年(わ)173号 判決

主文

被告人を罰金三万円に処する。

右罰金を完納することができないときは、金二〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

本件公訴事実中、殺人(昭和六二年七月一三日付起訴状記載の公訴事実)については、被告人は無罪。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和六一年五月二二日午後三時ころ、福井市〈住所略〉の○○自動車株式会社廃車置場の廃車車両内において、興奮、幻覚又は麻酔の作用を有する劇物であって、政令で定めるトルエンを含有する接着剤をみだりに吸入したものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(法令の適用)〈省略〉

(量刑の理由)〈省略〉

(昭和六二年七月一三日付起訴状記載の殺人の公訴事実につき、被告人を無罪とした理由)

一  本件の問題点と証拠関係の概要

本件殺人の公訴事実は、「被告人は、昭和六一年三月一九日午後九時四〇分前後ころ、福井市〈住所略〉市営住宅六号館二三九号室の甲野静代方において、殺意をもって、同女の次女甲野智子(当時一五歳)に対し、灰皿でその頭部を数回殴打し、電気カーペットのコードでその首を締め、包丁でその顔面、頸部、胸部等をめった突きにし、よって、そのころ、同所において、同女を脳挫傷、窒息、失血等により死亡させ、もって殺害した」というものである。

被告人は、捜査段階から一貫して右事実を否定しているところ、検察官は、右殺人事件(以下「本件」ということがある。)が発生した時刻ころ、あるいはその数時間後に右事件現場付近やその他の場所で被告人がその着衣等に血を付着させているのを目撃したとする複数の関係者の供述及び被告人から本件を犯した旨の告白を聞いたとする関係者の供述並びに右現場室内から採取された毛髪の一部と被告人の毛髪との同一性が認められるとの鑑定結果に主に依拠して、被告人が本件犯人と認められる旨主張し、他方弁護人は、右各関係者の供述及び右鑑定の信用性を争い、他に被告人と本件犯行を結び付ける証拠はないとして、被告人は無罪である旨主張している。

ところで、本件においては、犯行現場である前記二三九号室における犯人の犯行の目撃者はなく、後記のとおりその犯行の結果は約四時間後に発見されたもので犯行の具体的、詳細な態様を明確にする証拠はなく、また、犯行と被告人とを結び付ける的確な物的証拠もなく(仮に現場に遺留された毛髪の一部と被告人の毛髪との同一性が認められるとの鑑定結果を採用したとしても、後述するとおり、右遺留毛髪の採取状況及び採取場所からみて、これを被告人と犯人との同一性に関する決め手と目すべきものではない。)、結局、事件発生直後から翌二〇日早朝にかけての被告人に対する各目撃供述及び被告人から本件犯行を実行したことを聞いたとする関係者の供述の信用性如何が最も重要な問題点であり、以下当裁判所の判断について説明を加えることとする。

なお、以下の説明においては、便宜上次のとおり略語及び用語例を用いることとする。〈省略〉

二  本件事件の概要及び本件捜査の経緯

前記各関係者の供述の信用性の検討に必要な範囲で、証拠上明らかに認められ、また争いのない事件の概要と捜査の経緯を概観する。

1  事件の概要

(1) 事件の発覚及び犯行時刻の特定について

本件被害者甲野智子(以下「被害者」という。)の実母甲野静代が、昭和六一年三月二〇日午前一時三〇分ころ、勤務先から、福井市〈住所略〉市営住宅(以下、「××」という。)六号館二階二三九号室の同女方に帰宅すると、奥六畳間で被害者が頸部に包丁を突き立てられて血まみれで倒れているのを発見し、その死亡を確認した後直ちに一一〇番通報し、所轄の福井警察署員が右現場に駆けつけて本件捜査が開始された。

右二三九号室の階下の住人らは、前日の一九日午後九時四〇分前後ころに、右二三九号室内から人が争い、格闘した際に発生したものと見られる大きな物音を聞いており、そのころが犯行時刻と認められる。

(2) 現場の位置及び二三九号室の間取り等について

右××は、約一万八〇〇〇平方メートルの敷地内に五階建の八棟の集合住宅を有し、犯行のあった六号館は、同団地のほぼ中央に位置する。

現場となった二三九号室は、二階にある一〇戸の西から三戸目の三DKの居宅であって、北側中央に鋼鉄製外開きドアの玄関、玄関コンクリート土間及び玄関板の間があり、居宅東側には、北から順に便所・浴室、台所、4.5畳和室が、同西側には、北に4.5畳和室、南に六畳和室がある。

(3) 死体の状況及び成傷凶器並びに死因等について

① 損傷の状況について

死体後頭部に出血を伴う裂創五個が、右顔面から右側頭部にかけて長さ約一八センチメートル、幅約一五センチメートルの皮下出血一個が、眉間部に大豆大の表皮剥脱二個があり、これらの損傷のため、頭蓋冠から頭蓋底に至る骨折、大脳上面にクモ膜下出血、大脳底面に脳挫傷六個等が生じていた。

右顔面には、刺創または刺切創一三個及び切創一一個が、右頸部には、刺創または刺切創三個及び切創五個等があり、これらの損傷のうち、右側頸部の創管の長さ約五センチメートルの刺切創は、右頸静脈、舌骨を切断し、甲状軟骨を貫通して咽喉内に達していた。

右側頭部に刺創二個、左顔面に刺創三個及び表皮剥脱一個、前頸部に刺創及び切創各一個、右頸部に表皮剥脱二個、右上肢に切創二個、右下肢に皮下出血一個等があった。

胸部には、上胸部中央に刺創及び切創各一個、左鎖骨下部に切創一個、右鎖骨下部に刺創二個等があった。

頸部には、これを一周し、表皮剥脱を伴っている蒼白陥凹部(索溝)があり、前額部、眼周囲及び口周囲の皮膚、眼結膜、心臓、肺及び胸腺の表面には多数の溢血点が認められた。

② 成傷凶器について

頭部、顔面、頸部及び胸部の各刺創や刺切創の成傷凶器は、刀背のある細長い有刃器であり、顔面、頸部、胸部及び右上肢の各切創については、右と同一または同種の凶器によっても生じうるものと認められる。

頭部や顔面の裂創、挫裂創及び表皮剥脱、右頭部、右顔面、右下肢の皮下出血は、それぞれ鈍体が強く作用して生じたものである。

頸部を一周している索溝については、それほど柔らかくない紐状の物体で強く締められて生じたものである。

③ 死因について

第一に、主として右頸部の刺切創に基づく失血、第二に、右前額部や後頭部の打撃による大脳の挫傷、第三に、絞頸による窒息等が死因として考えられるが、これらの死因のいずれもが単独で死因となりうるし、二つ以上の死因が組合わさっても死因となりうるものである。

④ その他

被害者の血液型は、O・MN型であり、膣内容中に精子の存在を証明できなかった。

(4) 発見時における現場室内及び死体の状況について

① 被害者の死体は、前記奥六畳間において、隣室の東側4.5畳間寄りの位置に頭部を南南東に向けて右六畳間に敷かれた電気カーペットとその上敷の上に仰向けに倒れており、同カーペット用上敷の端が被害者の左腕と左足に巻きつく形でめくりあがり、同室内にあったコタツカバー及び東側4.5畳間にあった掛け布団等が被害者の右肩から顔に掛けられていた。

被害者の顔面・頭部からは血液が主に南側に向かって飛散し、その頭部や顔面が位置していた付近には、流れ出た大量の血液が付着していた。死体の傍らには、着用のスカートに覆われて、刃体が付け根から折れ曲がった文化包丁一本(〈証拠〉)が放置され、死体の右頸部には他の文化包丁一本(〈証拠〉)が突き刺さっており(前記甲野静代が発見時にこれを抜き取ってコタツ台上に置いた。)、右コタツカバーには約三〇箇所にわたって表面から裏面にかけて刃物が突き抜けたことによる損傷痕があった。

更に、凶器として使用された可能性が高いと考えられるガラス製灰皿(〈証拠〉)が、死体頭部東側直近に血が付いたまま遺留されており、同六畳間南西側に設置されているステレオセットのスピーカー上に置かれた人形ケース内の人形が倒れ、同ステレオセットのガラス戸上部の止め金が外れ、同ガラス戸は外部から圧力が加わったことにより内外にずれた状態になっていた。また、同様に凶器として使用された可能性が高いと考えられる電気カーペットのコード(〈証拠〉)が死体の上半身に巻きついており、そのほぼ全面に血が付着していた。

被害者方の各部屋には物色された形跡が認められず、また、被害者の着衣や下着類には乱れが認められなかった。

② 特異な血痕の付着箇所等について

右六畳間やその東側4.5畳間以外の血痕付着箇所としては、台所流し台下の包丁差しの扉内側に被害者の血液型と同じO型の人血痕が指先で擦ったような形状で付着していたほか、玄関ドア内側のドアチェーン左側とドアノブ下部にそれぞれ血痕が付着しており、ドアチェーン左側に付着したものはO型の人血であったが、ドアノブ下部のものについては人血であることは確認されたものの微量のため血液型を判定するまでには至らなかった。

更に、本件犯人が犯行後血で汚れた手等を被害者方で洗ったとすれば、その場所として考えられる浴室内の洗面器内やその床面等からは血痕反応がなく、また同様に台所流し台の水槽にも血痕等はなかった。

③ 凶器について

前記包丁二本(〈証拠〉)は、前記甲野静代が出勤するまではいずれも台所流し台下の包丁差し内に保管されていたもので、同包丁差し内側扉に認められた前記血痕については、本件犯人が同所まで包丁を取りに来た際その指先に付いていた被害者の血が付着したものと考えられる。

また、前記ガラス製灰皿(〈証拠〉)は、奥六畳間南西側に設置されたステレオセットの上に置かれていたものである。

④ 指紋や足こん跡等について

被害者方の各箇所から合計七六個の指紋が検出されたが、そのうち対照可能なものは二一個であり、いずれも被害者、交友者、家族らのものと一致し、犯人特定に結びつく指紋は発見に至らなかった。

また、足こん跡も合計一四個発見されたが、犯人特定に結びつくものはなかった。

(5) 犯行の具体的態様について

前記室内の状況、死体の損傷状況及び死因等からみて、被害者の頭部、顔面等を鈍体(前記灰皿である可能性が高い。)により数回強打し、電気カーペットのコード(符四号)で被害者の頸部を締め付け、二本の文化包丁で被害者の顔面、頸部、胸部等を多数回にわたり、いわゆる滅多突きに刺したものと認められる。

(6)  以上の事実から推認される犯人像及び犯行直後の犯人の行動や状態について

①  前記のとおり本件犯行に用いられた各凶器はすべて被害者方にあったものと認めるのが相当であり、そうすると、本件は計画的犯行である可能性は低く、後述のとおり本件犯人が被害者の返り血を身体等に付着させたまま逃走したと認められることをも併せ考慮すると、偶発的、突発的な犯行であると考えられる。また、被害者方の各部屋には物色をした形跡がなく、被害者の着衣等に乱れもなかったことなどから物盗りやわいせつ目的の犯行ではないとみられる。

②  本件犯人が、一名であるのかあるいは複数名によるのかについては、これを確定するに足りる客観的証拠はない。

③  被害者は、夜間一人で留守番する際には、玄関ドアを施錠するのを常としており、事件当夜もそうしていたと推認され、本件犯人は、被害者と顔見知りの人物であり、しかも被害者が夜間は一人でいることをも知っていたことが窺われる。

④  前記の犯行態様、死体の損傷状況及び台所流し台下の包丁差し扉内側と玄関ドア内側に存した各血痕付着状況に徴すると、本件犯人は、その指先などの身体の露出部や着衣に相当量の返り血を付着させたことを推認することができ(ただし、玄関ドア内側のノブ下部の血痕については、被害者を発見してその蘇生に努め、隣家に助けを求めるため室外へ出た前記甲野静代がこれを付着させた可能性を否定できない。)、また、前記のとおり、本件犯人が現場で手などの身体に付着した被害者の血を洗い流した形跡が認められないことからすると、本件犯人は、身体や着衣に相当量の血を付着させたまま、現場から逃走したことが認められる。

2  本件捜査の経緯

(1) 捜査方針及び捜査の行き詰まり

本件発覚後直ちに捜査本部が設けられ、現場における徹底した鑑識活動を実施したほか、現場や周辺における遺留物件を探索し、有力な物証の発見に努める一方、被害者の母親である前記甲野静代や被害者の友人及び周辺の住民に対する広範囲な聞き込み捜査を実施した。

同時に本件の殺害手段が前記のとおり異常に残虐性を帯び、かつ執拗な犯行態様であったことから、精神異常者や覚せい剤、シンナー等の薬物乱用者による犯行の可能性があると判断し、リストアップした個々の者に対し、被害者との接点、アリバイの有無等を中心に捜査を行った。

その間、昭和六一年四月には、シンナー事犯の前歴を有することから被告人も捜査の対象となり、被告人やその母親に対して事情聴取が行われたが、被告人が本件犯人であるとの疑いを抱かせる事情は判明せず、一旦は容疑の対象から外された。

以上のとおり捜査を尽くしたものの、結局、犯人を特定するには至らず、捜査は、行き詰まりの様相を呈していた。

(2) 乙川清の供述とその裏付け捜査

そのような中、昭和六一年一〇月下旬ころ、当時、覚せい剤取締法違反、窃盗の容疑で福井警察署に逮捕・勾留されていた乙川清に対し、同人がシンナー事犯の前歴を有することから、本件に関して何か知っていることはないかと事情聴取を試みたところ、同人は、「三月二〇日早朝に、エレガント春山に被告人が一人で来たが、その際胸辺りや靴に血を付けていた。」などと供述したので、本件との関係を明らかにするためより詳細な事情聴取を実施するとともに、供述の裏付け捜査を実施した。

その後乙川は、「三月一九日夜、シティギャルでゲームをしているときポケットベルが鳴ったので暴力団西山会事務所に電話すると、丁海保夫から、『ナカガワ』という人物から電話がありその人物が乙川を探している旨を聞き、丁海にシティギャルの電話番号を教えた。その後シティギャルに仲川一郎から電話があり、『被告人が気狂ったようになって、人を殺した、と言っている。どうしたらいいか。』と言ってきたので、シティギャルに来るよう伝えたところ、仲川一郎が被告人を連れて白色の乗用車でやって来た。そこで、被告人を一旦メゾンゆずり葉の丙沢明美方に匿った後、エレガント春山に来させて着替えをさせたりした。」と供述を発展させ、その裏付け捜査を実施したところ、右供述内容に沿う丙沢明美や鈴木(旧姓田中)みゆき(本件当時乙川とエレガント春山で同棲していた者)の各供述が得られたので、捜査本部としては、昭和六一年三月二〇日午前零時すぎころ被告人がその着衣等に血を付けていた事実が十分認められ、被告人が本件犯人である蓋然性が高いと判断した。その間、仲川一郎に対しても任意で取調べを実施したものの、本件当夜から翌日にかけて被告人と行動を共にしたことはないなどと乙川の供述内容を強く否定したため、同年一二月一四日、同人を犯人藏匿の容疑で逮捕した。

右仲川は、逮捕後も一貫して否認を続けていたところ、捜査本部は、乙川の前記供述に登場する、仲川が被告人をシティギャルまで乗せてきたという白色の普通乗用自動車の特定に努めた結果、佐藤三郎所有の白色スカイラインが捜査線上にのぼり、本件当日ころ右佐藤が同車を中川二郎に貸した事実が判明し、同年一二月一九日に同車を押収した上、翌二〇日、同車内の検証を実施した結果、助手席ダッシュボードの下付近から被害者の血液型と一致するO型の血痕が発見された。

そこで捜査本部では同車と本件との関連性が高いと判断して、仲川一郎を同月二六日に釈放するとともに、乙川を追求すると、同人は「中川二郎を仲川一郎であると記憶違いしていた。途中で記憶違いに気付いたが、中川二郎は暴力団との関係があるので、本当のことを言いにくかった。被告人をシティギャルに連れて来たのは中川二郎である。」と供述を訂正した。その結果、捜査本部では新たに中川二郎に対して事情聴取を実施したところ、同人は、当初は否定したものの、結局、「三月一九日夜、佐藤三郎所有のスカイラインに乗って被告人と××団地まで行き、被告人は、一人で車を下りてどこかへ行き、しばらくして帰ってくると、興奮した様子であり、右手に血が付いていた。」ことなどを供述するに至った。

また、被害者と交際のあった一原満に対する取調べの結果、昭和六一年二月下旬ころに同人が被害者の名前と被害者方の電話番号等を被告人に教えたとの供述を得ることができ、捜査本部としては、これによって被告人と被害者の接点の存在も裏付けられたと判断した。

(3) 被告人の逮捕及びその取調べ

以上の捜査の結果、捜査本部は、昭和六二年三月二九日、被告人を本件犯人として通常逮捕し、被告人に対する取調べを実施したが、被告人は、一貫して被害者との接触や本件犯行を否認し、勾留期間満了直前の同年四月一八日、精神鑑定のため被告人を鑑定留置した後、同年七月一三日被告人を本件殺人の罪で起訴した。

その間、同年六月ころには前記スカイライン内で発見された血痕は、詳細な鑑定の結果被害者とは別人のものであることが判明したが、他方、犯行現場から押収された前記の電気カーペット用上敷に付着していた毛髪様のもの九九本と被告人の頭毛等との異同識別鑑定が同年五月二二日付で警察庁科学警察研究所に嘱託され、本件起訴の直前である同年七月六日付鑑定書をもって、右九九本のうち二本の頭毛が被告人のものと同一であると考えられるとの鑑定結果が得られた。

三  目撃者等各関係者の供述の信用性

1  はじめに―本件各関係者の供述の特徴

各関係者の供述の信用性を判断するにあたり、まず、総論的に本件における各関係者の供述の特徴を検討する。

本件関係証拠によると、第一に、前記乙川をはじめ、本件発生時ころ被告人と犯行現場付近まで行ったなどとする中川二郎、そのほか被告人が着衣に血を付けているのを目撃したなどとする岩沢四郎、丁海保夫、丙沢明美、鈴木みゆきらは、いずれも覚せい剤やシンナー事犯等の犯罪歴ないしは非行歴を有するものであって、取調当時別件の被疑者として捜査中の者や本件発生時前後の被告人の行動に係わりを持ったとするその時点でも現にシンナーを吸入していたり、覚せい剤を使用していた者が含まれており、もともと捜査官側の意向に迎合しやすい素地ないしは少なくとも捜査官側の意向にことさら反し難い素地を有していること、第二に、現に右各人の供述は、いずれも重要な点で変遷を来しており、変遷の経緯やその合理的理由の有無が重要であること、第三に、各供述の開始時期については、前記のように最初の乙川ですら本件発生の約七か月後であり、それ以外の供述は、昭和六一年一二月から翌六二年一月にかけて初めて事情聴取されたもので事件発生後約九か月以上経過していること、第四に、各供述に係る関係各場所や車両(前記スカイライン)から、各供述を客観的に裏付ける被害者のものと見られる血痕や被告人の当時の着衣等が一切発見されていないことの諸点をその特徴として指摘することができる。

以上の諸点に鑑みると、右各供述の信用性については、特に慎重な吟味が必要であるといわなければならず、単に外見上供述内容が概ね一致するなどとして、それらの供述が相互に裏付けられていると即断することは危険であり、許されないものというべきである。

2  乙川清供述について

(1) 最終的な供述の要旨及びその概括的評価

乙川の供述は、61.11.25員面を初めとして司法警察員に対する供述調書一七通、検察官に対する供述調書九通、同人作成の62.1.14上申書一通、裁判官に対する尋問調書(62.6.9尋問施行)一通がある外、証拠調べ期日(62.12.1)及び公判廷における証言(6回公判)があり、その内容は、後に見るように変遷を重ているが、最終的な内容は、大要、次のとおりである。

「昭和六一年三月一九日午後九時ころ、被告人が、当時乙川が鈴木みゆきと同棲していたエレガント春山へトルエンの一斗罐を取りに来たのでこれを渡した。その際、被告人は、乙川に対し、女の子の所へ行く、中川二郎もいるし乙川も一緒に行かないかと言って誘い、部屋からどこかへ電話し、相手の女性の声が聞こえた。被告人と一緒に外へ出ると、白色の普通乗用自動車スカイラインが停まっており、中川二郎が運転席でシンナーを吸っていたが、同人には声をかけず、また当夜は西村五郎と覚せい剤取引の約束があったので被告人の誘いも断った。

その後エレガント春山の自室にいたが、暇なので午後一〇時から一一時ころ山田六郎方に電話すると、旧知の岩沢四郎がこれに出た。岩沢と会うことにし、岩沢と山田の両名が山田運転の車でエレガント春山に来たので、同車に乗ってシティギャルへ行った。同所で山田は帰り、岩沢と二人で同店で遊んでいると、ポケットベルが鳴ったので、西山会事務所に電話すると、事務所当番の丁海保夫が電話に出て、『今、ナカガワというのから電話があって、乙川の居場所の電話番号を教えてほしいと言っている。』などと言われ、シティギャルの電話番号を丁海に教えた。

その後翌二〇日午前零時から午前一時の間ころ、被告人からシティギャルに電話があり、『人を殺してしまった。どうしていいかわからない。』などと言ってきたので、とにかくシティギャルまで来るように言ったところ、場所がわからないと言うので、北陸高校のところまで『四郎』を行かせておくからそこまで来いと伝えた。被告人は、その際、運動公園の方にいるようなことを言っていた。

岩沢に被告人が来るから北陸高校近くの稲荷神社の所で待っていてくれと頼み、岩沢はこれを承諾した。その後しばらくして岩沢がシティギャルの入口で乙川を呼んだので、そこへ行くと、岩沢は、『とにかく、あいつ変なんや。血だらけや。』とか言った。シティギャル前に停まっていた白色スカイラインに近づくと中川二郎と会い、同人は吉川七郎がいるかどうか聞いたので、店内にいると答えてスカイラインの後部座席に乗り込んだ。すると、助手席に被告人が座っており、車内灯をつけると被告人は血だらけであり、その顔、首、上着、ズボン、手の外、シンナーの入った袋にも血が付いているのが見えた。そこで被告人に何をしたのか聞いたところ、被告人は、ろれつの回らない口調で何か言っており、はっきり聞き取れなかったが、この前誘おうとした女の子を殺してしまったとかいうのは聞き取れた。メゾンゆずり葉の丙沢明美方に被告人を匿うことにし、シティギャルに来ていた吉川七郎の車スプリンターを借りてこれを運転し、岩沢に右スカイラインを運転させてメゾンゆずり葉に行った。被告人を連れてメゾンゆずり葉二〇一号室に入り、丙沢明美に『今けんかしてきてやばいので、しばらく匿ってやってくれ。風呂にも入れてやってくれ。』などと頼み、スプリンターでシティギャルに帰り、午前二時ころ吉川七郎にエレガント春山まで送ってもらった。その後鈴木みゆきが帰宅し、午前三時ころ西村五郎から電話があり、豊岡第二ハイツまで覚せい剤を取りに来るよう言われたので、三栄タクシーを呼んで同所に行った。覚せい剤取引を終えて午前四時前ころ同タクシーで西山会事務所に行き、そこで丁海保夫と会った。シャブが手に入ったので一発射ちに行こうと同人を誘い、西山会本部長の車キャデラックを運転してメゾンゆずり葉に行った。その際、丁海に対し、『被告人が人を殺したと言って血だらけになって来たんやけど、どうしよう。』などと相談した。丁海は『本当か、大丈夫か。』などと言っていた。

メゾンゆずり葉に着くと、岩沢は既におらず、被告人はシンナーを吸っていた。丁海が被告人にお前人を殺したんかなどと聞いていたが、被告人は、いわゆるラリった状態で答えが返ってこなかった。その後丁海、丙沢明美と三人で覚せい剤を使用し、被告人に、三〇分位したらエレガント春山に来るよう言って丁海とキャデラックでエレガント春山へ帰った。

しばらくして午前六時か七時ころ、被告人がスカイラインでエレガント春山に来たが、その際顔や手の血は取れていたものの、血の付いた服はまだ着ていた。同所で、被告人に風呂を使わせたり、黄色いスェットスーツを貸してやり、寝かせたが、被告人は大声で唸るなどしていた。

二〇日午後三時ころ被告人が起き、一緒に被告人方まで行ったが、その際被告人から詳しい犯行の様子を聞き、その後被告人の血の付いた衣類等を底喰川に捨てた。」というものである。

右は、一見すると、具体的かつ詳細であり、一部(三栄タクシーを利用した日時及び赴いた場所)について裏付けが存し、また他の関係者の供述内容と大筋において一致するところではあるが、その供述の信用性を検討するにあたって、まず、指摘しなければならないことは、同人の供述が重要な点で大きく変遷を重ねていることである。そのほかにも、供述が真実とすれば、当然存在しなければならないと思われる客観的な裏付けとなるべき証拠がなく、更に内容自体に不自然、不合理な箇所が少なからずあり、他の関係者の供述と食い違う点も随所に見られるところである。

以下、主な点について、検討を加えることとする。

(2) 供述の変遷について

まず、変遷を重ねている主な事項について、その変遷の経過及び変遷に合理的な理由があるかどうかについて検討する。

① 着衣等に血を付けた被告人を最初に目撃した時刻及び場所並びに右目撃に至った経緯について

乙川は、当初、右足大腿部等に血を付けた被告人を最初に目撃したのは、三月二〇日午前六時ころに被告人がエレガント春山に来た際のことである旨供述しており(〈証拠〉)、シティギャルへ血を付けた被告人が白色スカイラインで来たことやその後被告人を匿うためにメゾンゆずり葉へ行ったことなどに関する供述は全く欠落していたものである。

この点、乙川は、当初からシティギャルやメゾンゆずり葉の件は記憶にあったが、右程度の供述をすれば、ⅰ 警察官が被告人から詳しく事情を聞くことによって関係者の名前が判明すると思った、ⅱ 自分の口から名前を出して関係者に迷惑をかけたくなかった、ⅲ 事実を小出しにすることによって釈放されることを期待していたなどと説明している(〈証拠〉)。しかし、右のうちⅰについては、右の程度の概略で警察官が被告人から本件犯行の詳細を聞き出せるとは考え難いし、ⅱの関係者に迷惑をかけたくなかったとしている点は、後述のとおり、当時福井警察署に身柄を拘束されていた乙川において、友人や本件当時同棲していた鈴木みゆきに対して刑が軽くなるかも知れないからということで本件に関する情報提供を積極的に求めるなどしていた事実(菅谷六夫の公判証言、乙川作成の鈴木みゆき宛の手紙二通)と相容れないものと考えられ、ⅲについては、なるほど乙川が当時勾留され、釈放を望んでいたことは理解しうるが、右当初の供述内容はその後の供述の変遷経過から見て単に事実を小出しにしたものと評価することはできず、いずれも直ちに首肯し難いものというべきである。

② 被告人と犯行現場付近まで同行するなどした人物について

前記のとおり、乙川は、当初、三月二〇日午前六時ころ、血を付けた被告人がエレガント春山に来た旨供述していたが、その後、当時被告人は一人で来たのではなく、仲川一郎が一緒だったと供述を変更し(〈証拠〉)、更に話しを遡らせ、三月二〇日午前一時ころに仲川一郎が身体等に血を付けた被告人と一緒にシティギャルに来たことなどを供述した(〈証拠〉)。

ところが、62.1.3員面からは、被告人と一緒に来たのは、仲川一郎ではなく、中川二郎であると供述を変え、以後、これを維持している。また、同員面で初めて、岩沢四郎が本件に関与していることを供述し、同人をしてシティギャルから北陸高校前辺りまで被告人と中川二郎を迎えに行かせた旨供述するに至った。

この点につき、乙川は、シティギャルから丁海保夫に電話したとき、同人から「ナカガワ」という人物から電話があったと聞いたのでその名前が印象に残っていたことや、血だらけの被告人がシティギャルまで乗ってきた白い乗用車がスカイラインであることを思い出してからこれを所有者の佐藤三郎から時々借りていたのは中川二郎であると気付き、同車を運転して被告人をシティギャルに連れて来たのは中川二郎であったことを思い出したが、同人が暴力団関係者であったことなどからその名前を出しにくかったものであるなどと説明している。

しかし、そもそも被告人から女子中学生の殺人という重大な犯罪を実行したことを告白され、その身体や着衣に右犯罪の痕跡である被害者の血を付着させている姿を目のあたりにして、その被告人を匿うなどしたというまさに非日常的、かつ極めて特異な体験をしたというのであるから、当時被告人と行動を共にし、血だらけの被告人をシティギャルに連れて来るなどした人物については鮮明に記憶が残るはずであり、そのような人物につき記憶違いをするなどということは到底考えられない事態といわなければならず、また、血だらけの被告人がシティギャルまで乗って来た白い乗用車がスカイラインであることを思い出したことによって初めて被告人を連れて来たのは中川二郎であることを思い出すことができたというのも、同様の理由で、すなわち、当該人物につきそのようなあやふやな記憶しか残らなかったとしている点で不自然というべきである。そして、当初の供述では車種は全くわからないとしていた白い乗用車について、61.12.19員面で、それがスカイラインジャパン二〇〇〇であるほか、その所有者・使用状況まで明確にしているのも不自然で唐突である(なお、同日付で同スカイラインが佐藤三郎から任意提出され、領置されている。)。更に、丁海保夫がシティギャルにいる乙川に「ナカガワ」から電話があったと伝えたという点については、後述のとおり、丁海保夫の供述では「誰かわからない男」、「乙川の関係者と思われる男」からの電話という程度で右の点は明らかではなく(9回公判)、中川二郎も自ら西山会事務所に電話したことについてはこれを否定しており、他に裏付けがないものである。

また、62.1.3に至って初めて岩沢四郎を登場させたことにつき、それまで同人のことは忘れていたとしているが、事件当夜久し振りに会った同人が果たしたとされる本件での重要な役割に徴すると、そのように記憶が曖昧であることは考えられず、直ちに首肯し難いというべきである。

右の二点のほか、乙川供述は次の諸点についても変遷を重ねている。

③ 三月一九日夜にシティギャルへ赴いた際の状況について

この点に関する当初の供述は、同日午後九時ころ、友人の石塚八郎と吉川七郎がエレガント春山に来たので、三人でシティギャルへ行き、翌二〇日午前二時ころまでゲーム等で遊び、エレガント春山に戻ったというものであったが(〈証拠〉)、その後、三月一九日午後一〇時ころ、友人の山田六郎方に電話したところ、旧知の岩沢四郎がそこにいたことから、同人に対しエレガント春山まで来るように言い、右山田の車で山田と岩沢が来たので、その車でシティギャルに行き、山田は同店には入らずに帰り、岩沢と同店で遊んでいると、午後一一時ころ、石塚、吉川、帰山九郎の三人が同店に来たものである旨供述を変え(〈証拠〉被告人作成の上申書)、更に、右帰山については、当夜シティギャルには来ていなかったと供述を変更した(〈証拠〉)。しかも、この帰山については、「店(シティギャル)にいる帰山に白色のマークⅡを借り、岩沢を連れて北陸高校の正門前あたりまで行き、そこで同人を下ろした。その後帰山の車でメゾンゆずり葉に向かった。」などと具体的行動を摘示してまで供述していたものである(右62.1.14上申書)。

④ シティギャルへ電話してきた人物及びその電話の内容について

61.12.6員面には、「二〇日午前零時ころ、ポケットベルが鳴ったので西山会事務所に電話すると、当番の丁海保夫から『ナカガワというのから乙川の居場所を教えてほしいとの電話があった。』と聞いて、シティギャルの電話番号を伝えたところ、二、三〇分して仲川一郎からシティギャルに電話があり、『乙川さんですか。一郎ですけど、今三ちゃんが気狂って人殺してもたんや。』などと言ったので、『とにかくここへ来い。』と言ってシティギャルの場所を説明し、午前一時ころ、仲川一郎が被告人と一緒にシティギャルに来た。」旨の供述記載があり、初めて本件の発生を聞いた状況が述べられているのであるが、その後、前記のとおり、被告人と一緒に来たのは仲川一郎ではなく中川二郎であると変更した上、62.1.3員面では、シティギャルへ電話して来たのは被告人自身であり、被告人が、電話で「人殺してしもたんや。」などと言った旨供述するに至ったものである。

右のように、仲川一郎を中川二郎と変更してからは仲川一郎と同様に乙川の使い走りをしていたとする岩沢四郎を登場させ、同人が中川二郎を迎えに行ったとか、シティギャルへ電話してきたのは被告人自身であるなどとそれまでの供述を大きく変更させたものであるが、これは仲川一郎と中川二郎では、その地位・年齢・平素の交際状況等において、被告人や乙川に対する関係が大きく相違し、従来の供述内容では不自然となるからとも解され、結局は従来の供述は仲川一郎との関係に合わせた作り事であったと認められる。

⑤ 岩沢の登場及び被告人らをシティギャルまで導いた状況について

61.12.6員面までは、仲川一郎と被告人が直接シティギャルに来た旨の供述をしていたが、62.1.3員面では、岩沢をして北陸高校近くまで被告人らを迎えに行かせたとし、更に62.1.14上申書では、シティギャルに居た帰山九郎から白色のマークⅡを借りて岩沢と共に北陸高校へ向かい、正門近くのパン屋の前で車を止め、岩沢にここで被告人を待つように言い、岩沢を下ろしてシティギャルに戻ったとし、その後、乙川自身が北陸高校近くに行ったことはなく、シティギャルの前で岩沢に対し、近くに北陸高校があるので、その辺で(被告人を)待ってシティギャルまで連れて来るように言ったと供述を変えたものである。

⑥ 血の付いた衣類等の処分の状況について

当初、血の付いたズボンや白色トレーナー等は、ビニールの買物袋に入れて被告人方まで持って行ったと供述したものの(〈証拠〉)、その後、血の付いた衣類等を被告人方へ持ち帰ったのは間違いで、真実は被告人方へ赴く途中、福井市内の上里下水ポンプ場近くで底喰川に捨てたものであると大きく供述を変え、その際捨てた物は、コール天地のジーンズ、青っぽい灰色のズボン、白色トレーナー、靴下一足、靴(白っぽいカジアルシューズかバスケットシューズ)一足であり、いずれも血が付いていたとした(〈証拠〉)。

更にその後の供述では、右のうち靴一足が捨てた対象物から外れ(〈証拠〉)、次いで靴下一足についても買物袋にこれを入れたかどうかはっきりしないとし(〈証拠〉)、62.12.1の神戸地方裁判所姫路支部での証拠調期日では、「白っぽいトレーナーは、ビニール袋の中には入っておらず、福井市内のあるところに隠してある、今は言えない、福井に戻してもらわないと提出しにくい。」などと供述し、続く62.12.15の6回公判では、「八月に最後に見たが何度も隠し場所を変えているので、現在の隠し場所は忘れていて言えない。」などと供述するに至った。

以上のように、乙川の供述内容は、右に掲げたものだけでも、いずれも記憶違いを来すことはないと思われる重要な事項につき、異常と言っても過言ではない程に変遷を重ねているものである。しかも、そのときどきの供述を見ると、具体的かつ詳細であって、直接体験した者でなければ容易に供述することができないような内容を有するのに、これが後の取調べにおいては虚偽であったとしていとも簡単に崩壊しているのである。右に関し、公判廷において、捜査段階での供述の変遷について質された際、「それもいい加減なことを言ったんじゃないですか。最初は何についても浅はかな考えで単にすぐ答えていましたから、いい加減な調書ばかりあります。」とも述べ(6回公判・速記録24丁以下)、取調官への迎合、不真面目な供述態度が看取できるのである。もとより、供述が変遷しているという事実だけでその供述全体の信用性がないと即断することは妥当ではなく、その中に真実の部分が含まれていないか緻密な検討が必要であるが、右に見たような乙川供述については、確実な裏付けがない以上、真実の部分と虚偽の部分を区別することは至難といわなければならない。

(3) 供述の裏付けとなるべき客観的証拠がないことについて

乙川供述は、それが真実であればその裏付けが得られなければならない事項について、客観的裏付けがないものである。

① スカイライン車内のダッシュボードの血痕について

乙川供述によると、被告人が乗っていたスカイライン車内の助手席ダッシュボードに血が付いていたので(乙川作成の図面等によると、相当量の血がべっとりと付いていたとされている。)、車内にあったティッシュペーパーに唾を付けてこれを拭いたとされている。しかし、完全に拭き取ったかどうか同人自身確認していないとしている上(6回公判)、ダッシュボードの材質等からしてこれに付着した血を右のような方法で完全に拭き取ることは困難と思われるし、同スカイラインの所有者である佐藤三郎は、同車の返還を受けた後、車内の血痕に気づかず、ダッシュボード等を拭いたりしたことはないと供述しているにもかかわらず、同車のダッシュボードから血液反応は一切なかったと認められる。そして、ダッシュボード下部付近からは右佐藤が同車両を所有する以前に付着したと認められる血液反応は検出されているのである。

② メゾンゆずり葉二〇一号室内の血痕について

乙川供述によると、被告人は、顔、首、胸、ズボンの右大腿部、手などに相当量の血を付けたままメゾンゆずり葉二〇一号室に入った上、こたつ付近に座り、シンナーを吸うなどしていたとされており、しかも被告人においてその血が他に付着することを気にかけていたとの供述もなく、そうすると、右血が相当乾いていたとしても、同室内やこたつ布団等から被害者のものと一致する血液反応が認められて然るべきと考えられるところ、これが一切なかったものと認められる。

(4)  供述内容に不自然・不合理な点が見られることについて

① 手を尽くして乙川に連絡を取って相談しようとしていた被告人の同人と会ってからの言動について

乙川供述によると、本件犯行を実行した被告人は、西山会事務所を通じてシティギャルにいる乙川の所在を探し出した上、同店に電話し、同人に対して「人を殺してしまった。どうしていいかわからん。」などと訴え、同人において、とにかくシティギャルまで来るよう申し向けたとされているが、右のように手を尽くして同人と連絡を取った被告人のシティギャル到着後の言動は、同人の供述によると、同人の「お前何したんや。」の問いに対し、ろれつの回らない口調ではっきり聞き取れなかったものの、「この前の女の子を殺してしまった。」とかいうのは聞き取れたという程度のものであり、右以上に被告人から積極的に自己の犯行の説明はもとより、何らかの援助を求めたり、善後策について相談を持ちかけたりしたことは一切なく、ただシンナーを吸入するのみであったとされており、当時被告人はシンナー吸入等により普通の精神状態ではなかった旨の乙川供述を前提としても、殺人事件を犯して助けを求めてきた者の言動として、切迫感がなく、著しく臨場感に欠けた供述といわなければならない。

② 着衣や身体に血を付けた被告人を目撃してからの乙川の行動等について

乙川供述によると、シティギャルに来た被告人は、顔面や首や手のほか、白っぽいトレーナーやズボンに相当量の血を付けていたとされており、また、被告人から「この前の女の子を殺した。」と聞いたというのであるが、殺人という重大な事実を告白し現に身体や着衣にその生々しい痕跡を露にしている被告人に対して、にわかにその言葉の全部を信用することができなかったとしても、直ちに本当にそのような犯行を実行したのかどうか、少なくとも、いつどこで何が起きたのかその具体的状況の説明を求めるのが通常と考えられ、またそのような確認なしにその後の的確な行動はとりようがないと思われるのに、同人において、そのような行動はとっておらず、直ちに被告人をメゾンゆずり葉に匿うことにしたというものであって、この点は、直ちに首肯し難いといわざるを得ず、また、メゾンゆずり葉へ連れて行った理由として被告人から詳しく話を聞くつもりだったとしながら、メゾンゆずり葉に着いてから被告人に何があったのか問い質すことなく、直ちにシティギャルに戻ったとしているのであって、この点も矛盾した供述というべきである。

更に、当時の被告人の言が真実とすれば、右のように身体等に生々しい犯罪の痕跡を示しているのであるから、まず少なくとも顔や手を洗わせるなどするのが通常と思料されるところ、被告人とシティギャルで会ってから、その着衣や身体に付いた血に気付きながらこれに対して何らかの処置を取ったとの供述は一切なく、そのことを気にかけたとの供述もなされていない上、被告人の右のような姿を目の当たりにし、被告人から殺人の事実を仄めかされたとすれば、当時被告人と行動を共にしていた中川二郎に対しても、当時同人がシンナーの吸入に耽溺していたとはいうものの、被告人に一体何が起こったのか説明を求めるのが当然の推移と考えられるが、同人に対して右のような行動をとったとの供述も一切ないのであって、これらも不自然な点である。

そして、被告人自身その身体、着衣等の血について、自らこれを目立たないようにする等の何らかの方策を講じたという供述は全くなく、却って胸に大きな血を付けたまま、早朝六時か七時ころ、メゾンゆずり葉からエレガント春山まで車を運転してやって来たとされており、人目を気にしないとも考えられる右行動は、殺人を犯した人物の行動としてあまりにも不自然といわなければならない。

③ メゾンゆずり葉に向かった後の中川二郎に関する供述について

乙川供述によると、同人の先導により被告人、岩沢四郎、中川二郎らとシティギャルからメゾンゆずり葉に向かい、被告人を連れて二〇一号室に入ったものの、中川二郎については、一緒に同室に入ったかどうか覚えておらず、その辺りからの同人に関する記憶は曖昧である、あるいは全然覚えていないとされている。しかしながら、まず、この点に関する当初の供述は、「メゾンゆずり葉に着くと、中川二郎がまだシンナーを吸っていたので、『シンナー吸っているんなら入るな。』と言った記憶があるが、同人が二〇一号室に入らずに玄関の外で待っていたものか、同室に入って奥六畳間ではなく台所でシンナーを吸い続けていたものかはわからない。その後しばらくして吉川七郎の車で中川二郎と共にシティギャルに帰り、乙川だけが店内に入り、右吉川に車の鍵を返した後、同人にエレガント春山まで送ってもらった。中川二郎は、右吉川に自宅まで送ってもらったと思う。」というもので(〈証拠〉)、メゾンゆずり葉からシティギャル、シティギャルからエレガント春山まで中川二郎と共に移動したことが明確に述べられており、右変遷自体不自然であるし、他の関係者に関する供述は、具体的かつ詳細であるのに、身体等に生々しい血を付けた被告人と当時行動を共にし、その間の事情を知っていると見られ、かつ、その行動については関心を抱くべきはずの中川二郎に関する記憶が右のように曖昧であるということは到底考え難く、この点も直ちに首肯することはできないというべきである。

④ 被告人らから聞いたとされる犯行状況の説明について

乙川供述によると、被告人から聞いた本件犯行の状況は、「最初仲川一郎が被害者方に行ったが出て来ず、被告人が無理にでも連れて来ようとして行くと、被害者は鍵をかけて出て来なかったので、『開けま。』と何度か言って玄関ドアを叩くと、被害者は鍵を開けた上包丁を突きつけて帰れと言ったので、腹が立って灰皿で被害者を殴ってしまい、それからは訳がわからないようになって、気が付いたら血だらけになっており、びっくりして逃げてしまった。」というものであり、また、仲川一郎から聞いた本件犯行前後の状況は、「被告人と二人で女を誘い出そうと思って車で行き、自分が先に行ったけど断られた。被告人にそのことを言うと、今度は俺が行って来ると言って出て行ったが、しばらくすると、血だらけになって帰って来た。」というものであり(〈証拠〉)、仲川一郎が登場していた時期の供述は一致していたが、仲川一郎と供述していた人物は、実は中川二郎であると供述を変えた後には、中川二郎から右の本件犯行前後の状況を聞いたとの話は出て来ず、右に関する供述がいつの間にか欠落しており、その間の説明は何らなされていない。

⑤ 被告人らが輪姦した高橋春子に対し被告人を匿うよう頼んだとしている点について

乙川供述によると、昭和六一年三月二〇日夜、被告人を連れて高橋春子方に行き、同女に対し被告人を匿ってくれと頼んだが、同女から変なことばかりするので嫌やと言われて断られたとされているところ(〈証拠〉)、関係証拠によると、被告人は、その二、三日前に、斉藤一夫や津田二夫と共に同女を輪姦する事件を引き起こしたため、当時その謝罪等に努めており、乙川もそのことは被告人から相談をもちかけられて十分知っていたことが認められ、そのような時期に、同女にとって嫌悪して然るべき被告人を匿ってくれるよう頼んだというのは、非常識といわざるを得ないし、そもそも同女方に殺人を犯した被告人を匿わなければならないことの必要性に関する事情が何ら明らかにされていないものである。なお、この点に対する高橋春子の公判証言(14回公判)は、乙川が被告人を匿ってくれと言ってきた事実については必ずしも明確ではないものの一応これを肯定したが、その時期については極めて曖昧な証言に終始しており、また弁護人との会話を録音したテープ(符一五号)では、被告人を匿うよう頼まれたこと自体覚えていないとも言っており、同証言は、この点に関する乙川供述の裏付けとなりうべきものではない。

(5) 他の関係者の供述内容と一致しないことについて

乙川供述が真実とすれば、当然他の関係者の供述内容と一致しなければならないと思われる重要な事項につき、矛盾あるいは不一致となっているところがあり、この点も同供述の信用性に影響を与える事情である。

① 被告人の身体等における血痕の付着箇所について

乙川供述によると、シティギャルに現れた被告人については、顔(口の周り等)や首筋に血を付けていたほか、右大腿部に直径二〇センチメートル位あるいは手掌大の血を、胸部には右胸辺りの握り拳大の血と、飛び散ったような細かい血を付けていたとされているが、この点に関する関係者の供述を見ると、胸部と手については、若干の表現の違いがあるだけでほぼ供述が一致しているといえなくはないものの、直ちに気付きうるはずの顔に付いた血については乙川以外には明確に供述してはおらず、右大腿部の大きな血痕についても同様であり、右の点は、重要な供述の不一致といわなければならない。

すなわち、まず、犯行現場付近まで被告人と同行し、犯行直後の被告人の姿を最初に目撃し、犯行を打ち明けられた後も被告人と長時間にわたって行動を共にしていた中川二郎については、乙川の供述どおり被告人が顔や首筋及び右大腿部にも血を付けていれば当然これらに気付くと思われるのであって、右中川が全く顔や首筋及び右大腿部の血に気付かなかったとしているのは理解し難いし、その他の関係者特に岩沢四郎、丙沢明美については、メゾンゆずり葉二〇一号室の明るい室内で被告人の姿を見たとされているのであって、右両名についても、乙川供述を前提にすれば、被告人の顔や首筋及び右大腿部に付着した血に気付かなかったとは考え難いというべきである(なお、岩沢四郎は後記のとおり被告人の顔や手に手が付着していたことを否定する趣旨ととれる供述をもしている。)。

② 中川二郎供述との不一致について

被告人から犯行状況の説明を受けたことに関する乙川供述によると、前記のとおり、同説明では、中川二郎が(当初の表現では「仲川一郎が」とあるが、その後仲川一郎は中川二郎の間違いであると訂正されたので、結局この部分も「中川二郎が」ということになる。)最初に被害者方に赴き、被害者から誘いを断られたので次に被告人が同所に行ったとされているが、中川二郎は、被告人に先立って自ら被害者方に行った事実を否定しているほか、乙川供述によると、シティギャルに電話してきた被告人は、その時運動公園から電話している旨述べたとされているのに対し、中川二郎供述では、エレガント春山前で初めて被告人は乙川と連絡をとることができたとされており、運動公園から被告人が乙川に電話した事実は何ら述べられておらず、また、乙川供述によると、シティギャルにおいて丁海保夫と電話で話をした際、同人から「ナカガワ」から電話があったと聞いたとさているが、中川二郎供述によると、同人が自ら西山会事務所に電話した事実は何ら述べられていない。

③ 丁海保夫供述との不一致について

後述するとおり、丁海保夫から「ナカガワ」という人物から西山会事務所へ乙川の居場所を問い合わせる電話があった旨を聞いたとする点は、丁海供述と矛盾するものと思料されるほか、乙川供述によると、メゾンゆずり葉を出てから覚せい剤取引を済ませて西山会事務所に行き、同所から丁海保夫とともにメゾンゆずり葉に戻るに際して、同人に対し「被告人が人を殺したと言って血だらけになって来た。」などと伝えたとされているが、右丁海は、公判廷において、乙川から被告人がどうしようもないことをしたとか、やばいことをしたなどと聞いた程度で、前記の如き内容までは聞いたことはないと証言している上、乙川が、事件の翌日に被告人や丁海保夫と一緒に白色スカイラインを佐藤三郎方まで返しに行ったなどと丁海保夫と行動を共にしたとしている点についても、丁海保夫は、明確にこれを否定していることが認められる(9回公判)。

右各事実は、いずれも記憶違いを来すような事項とは考えられず、何故かかる不一致が生じたのか合理的説明ができないものである。

(6) 乙川が被告人犯人説を供述するに至った経緯、当時の乙川の立場及び他の参考人に対する同人の言動等について

前述のとおり、乙川が、被告人が本件犯人であることを窺わせる供述を始めたのは、昭和六一年一〇月下旬ころであり、当時乙川は、覚せい剤取締法違反、窃盗の被疑事実で福井警察署に逮捕・勾留されていた。

そして、同人は、同月二九日付消印の鈴木みゆき宛の書簡により、同女に対し、「前川三夫のことだけど、よく思い出してくれ、殺人事件のことがおれの情報で逮捕できれば、おれは減刑してもらえるから、頼むぞ。」などと本件に関し情報の提供を依頼したことが認められるほか、同人が覚せい剤取締法違反の事実で逮捕された同年八月一九日以降、同人との面会に何度か同署を訪れた友人の菅谷六夫や本間多鶴子らに対しても、本件殺人事件の犯人を知らないか、本件発生のころ前川三夫とよく一緒にいたのは誰かなどと尋ねたり、犯人が分かると自分の刑が軽くなるかも知れないと申し向けたりしていたことが認められる。

また、被告人犯人説を供述するに至った理由に関し、当時保釈を得ようと考えていたことを挙げており、実際、三回にわたって保釈の請求をした旨供述している上、昭和六一年一一月二八日に福井警察署から福井拘置所に移監されることになっていたが、規律の厳しい拘置所よりも比較的規律の緩い代用監獄にいたいということで、本件に関し重大なことを思い出した旨供述し、その取調べのため移監が見送られた経緯が存すると認められることからすると、当時乙川は、自己の刑事事件の量刑や代用監獄における待遇面での配慮等を得るために被告人が本件犯人であるかのような供述を始めたものと見る余地が多分にあり、そのための情報収集を友人らに依頼していた状況が認められるのである。

この点乙川は、「被告人が精神病院に入院していることを聞き、被告人も本件で苦しんでおり、その苦しみから逃れるためシンナーを乱用して入院したんだろうと考えたし、また三月二〇日にエレガント春山で寝かせた際、被告人はしきりにうなされていたので、被告人としても本件についてきちんと責任をとってやり直した方が被告人のためになると考えて、真相を話す気になった。」などと供述するが、右認定の諸点とは相容れないばかりか、その内容自体合理性があるものとも思われず、前記のとおり、最初は浅はかな考えですぐ答えており、いい加減な調書ばかりある旨の証言とも矛盾し、信用することができない。

(7)  以上の諸点を総合すると、乙川供述については、その中に真実の部分が混在している疑いは否定できないとしても、同部分について確たる客観的裏付けが存在せず、また前述の幾多の重大な疑点によれば、同人は、殊更虚偽の供述または無責任な供述をしたり、あるいは体験していない事実を真実のように供述する性癖を有しているとも考えられ、結局、被告人が本件犯人であるとの同人の供述については、その信用性を肯定することは到底できないといわなければならない。

3  中川二郎供述について

(1) 供述の要旨等について

中川二郎の供述は、62.1.24員面を初めとして司法警察員に対する供述調書六通、検察官に対する供述調書五通、上申書二通(62.2.1、62.2.6付)、裁判官に対する尋問調書一通(62.6.24尋問施行)及び公判廷における証言(3、4、5回公判)があり、その内容は、大要、

「昭和六一年三月一九日夜、自宅にタクシーを呼んだか自宅近くの花月橋南詰辺りでタクシーを拾うかして、午後九時前ころ、友人の佐藤三郎方に行って同人から白色の普通乗用自動車スカイラインを借り、同車に乗って島田自転車商会に行き、同店でゴムのりを購入した後、同九時二〇分ころ、エレガント春山前に行った。同所で被告人と会い、被告人を車に乗せて××団地に向かった。被告人の指示により同団地の中で車を停めると、被告人は、『行って来るでちょっと待ってて。』と言って車を下りて後方に行き、二、三〇分経ったころ荒い息遣いで後方から帰ってきて助手席に乗り込んだ。しばらくして車内で室内灯をつけて被告人にトルエンを注いでやると、その右手の甲や指先に濡れた血がべっとり付いているのに気付いた。その後、被告人から頼まれて江守の里の被告人の義兄方に行ったが、留守だった様子であり、今度は乙川と会いたいということでエレガント春山へ行き、被告人は乙川と連絡を取ろうとしていた。その際、被告人の胸全体に血が付いているのに気付き、ひどいけんかやったんやな、と声をかけると、被告人は、『逆らうと腹立たんか。逆らうから悪いんや。中学生の女を刺したんや、殺してもたんや。』などと言って本件犯行を打ち明けた。乙川と連絡が取れた被告人から北陸高校まで行ってくれと頼まれて、同校前付近に行くと、岩沢四郎が待っており、同人の案内でシティギャルへ行き、乙川と会った。その後岩沢運転のスカイラインに乗って同所を出発したと思うが、以降のことはシンナーの影響により記憶がない。」というものである。

右は、具体的で詳細な部分を多く含み、一見、体験者でなければ供述できないのではないかと思われる事項もあるほか、当初の供述を除いてほぼ一貫していること、タクシー乗車の事実につき一部確実と思われる裏付けがあり、当夜佐藤三郎からスカイラインを借り出した事実についても右佐藤の証言(10回公判)により一応裏付けられていること、被告人と二人だけの場面に関する供述は、乙川等他の関係者の供述とは独立しており、同人らの供述に基づいて捜査官が誘導等することも考え難いことなどに徴すると、その信用性は、容易に否定できないのではないかと見る余地がないではないが、以下に述べるとおりの疑問点も多々存するところである。

(2) 当初の供述内容及びその後の供述の進展とその理由について

同人は、昭和六一年一二月二一日ころから取調べを受け、一〇回位の取調べを経て初めて事件当夜被告人と××団地へ行くなどしたことを供述したことが認められ(〈証拠〉)、また、同人の当初の供述内容は、前記要旨とは大きく異なり、ⅰ 事件当夜は、××団地敷地内には入っておらず、同団地東北側に位置する公園が切れる一〇メートル位手前で車を停めた、ⅱ 同所で車を下りた被告人は、車の前方に向かい、前方から帰ってきた、ⅲ 被告人の右手甲や指の血に気付いた後、被告人から乙川の所へ行ってくれと頼まれたが、自分は行かず、すぐに自宅に帰ってそこで被告人に車を貸した、というものであり(〈証拠〉)、その後の供述と比べて、××団地付近で車を停めた位置、車を下りた被告人が向かった方向や帰ってきた方向(これは車を停めた場所と犯行現場である××団地六号館の位置関係から、被告人が向かった方向等が決まるので、結局、車を停めた位置に関する供述の食い違いに帰するとも考えられる。)が異なるほか、同団地を出てからの行動について、その後に江守の里の被告人の義兄方やエレガント春山、シティギャル等に向かったこと、被告人から本件犯行を打ち明けられたことなどに関する供述が一切欠落していることが明らかである。

右62.1.26員面の後、同人作成の62.2.1上申書で初めて××団地内で車を停めたことや被告人が車に帰ってきてから江守の里、エレガント春山、シティギャルへ行ったことなどを供述し、続く62.2.6上申書でようやくエレガント春山前で被告人から本件犯行を打ち明けられたことを供述するに至ったものである。そして、62.2.10員面以降は、ほぼ一貫した供述をしている。

そこで、右供述の変遷ないし進展に関し、その理由を検討するに、昭和六一年一二月二一日以降一〇回位もの取調べを経て初めて、被告人と事件当夜××団地に行った事実等を認める供述をしたことについて、62.1.24員面では、一〇か月以上も前のことで記憶も薄れ、加えて当時シンナーを吸っていて正常な感覚がなかったのでなかなか思い出せなかったなどと説明しているが、その当時親密な交際をしていなかった被告人を自動車に乗せて走り回り、長時間一緒にいて、一緒にシンナーを吸い、そのほか前記供述要旨のごとき体験をしたとすれば、その特異な体験事実は強く記憶に残るはずであり、当夜吸っていたというシンナーの影響を考慮しても、その大筋の記憶は残っていてもよいと思われ、その余の同人が真実を述べたくなかったという理由と共に、その説明は納得し難いものである。

また、当初の供述調書において、その後の供述と異なる供述をした理由については、正直に被告人が犯人だと言うと、犯人を知っていてこれを隠していたのだからその罪で逮捕されるのではないかとの不安があったし、当時保護観察付執行猶予中であり、これが取り消されるのではないかともおそれていたなどと供述し(62.2.10員面、4回公判)、更に、取調べ警察官の西口刑事に犯人を隠していたら罪になるのか尋ねると、同刑事から現場に入っていないのなら大丈夫じゃないのかと言われて正直に言おうと決意したと供述している(4回公判。なお、62.1.24及び62.1.26各員面は野尻忠巡査部長が作成し、62.2.10及び62.2.11各員面は西口猛警部補が作成している。)。

右の供述は、××団地付近で車を停めた位置や車を下りた被告人が向かった方向等について異なる供述をした理由としては納得させるものではないが、犯人から犯行を打ち明けられたり、犯人とその後行動を共にした点を供述したくなかった説明としては一応もっともなことのように解される。しかし他方では、取調官の説明により自己の不利益になる限界を知って、不利益にならない範囲で、却って取調官に迎合した供述をする機縁となったとも解される。すなわち、乙川が中川二郎を仲川一郎として供述していた当時は、乙川は被告人及び仲川一郎から、初めに仲川一郎が被害者を誘いに行ったが出てこなかった、あるいは、断られたと聞いたというのであるが、このような事実があったとすれば、中川二郎の犯行への係わり方は一層深くなり、取調官としても被害者の被害直前の言動、犯行の経緯を明らかにする唯一の人物として、その点を入念に追及するものと思われるが、その間の事情について、中川二郎の供述は、被告人が車を出て被害者方に赴き、犯行に及んで戻ってくる間、二、三〇分車の中でシンナーを吸って漫然と待っていたとの供述で終わっており、被告人が戻ってくると、再び自己の行動、心情も含めて、被告人についての観察、叙述が詳細になっている。次いで、被告人の行動について、ほかの関係者の供述が得られる時点、すなわち、被告人の身柄を乙川及び岩沢に引き渡してからの自己の行動については、途端に記憶がなくなるというのも、後にも述べるとおり、極めて不自然である。

以上のとおり、同人の供述の経緯については、不自然、不合理さが看取されるというべきである。

(3) その余の供述の変遷について

右に指摘したほかに、同人の供述中には、やや細部にわたるものの無視しえない変遷ないし動揺が存するものである。

① 北陸高校前付近で待ち合わせた人物の特定について

前記供述要旨のとおり、中川二郎は、被告人と共にエレガント春山から北陸高校前辺りに向かい、同所で岩沢四郎と落ち合ってシティギャルへ向かったとされているが、この点に関する当初の供述は、「被告人から『北高前まで行って。』と言われて北陸高校の校門前へ行くと、被告人は『男が待っているので。』と言ったので更に車を走らせていると、稲荷神社の手前に二〇歳位の初めて見る男が立っていたことからこの男だと思い、助手席後部ドアからその男を車に乗せた。」としていたものであり(〈証拠〉)、当該人物については何ら特定がなされていなかったものである。そしてその後の62.2.11員面で、「北高校門前付近で、被告人は、車の進行方向を指さして『そこを左に曲がるとケーキという男が立っているので。』と言った。稲荷神社の前辺りに人影が見え、車を停めるとその男が乗ってきたので、『お前がケーキと言うんか。』と聞いた。」として初めて同人物の特定がなされ、被告人からその名前を聞いた状況等が明らかにされている。

62.2.1上申書では被告人から本件犯行を打ち明けられたことについては供述されていなかったのであるが、北陸高校前辺りで落ち合った人物までもことさら隠す必要はなかったと考えられ、右変遷については合理的理由が見出せないというべきである。

② 江守の里からエレガント春山へ向かう際の車中での被告人の言動について

中川二郎供述によると、××団地から被告人の義兄が居住する江守の里に行き、更に同所からエレガント春山に向かった際、被告人は、種池町付近を走行中の車中で、「あの女ばかやろう。」などとぶつぶつ言っていたとしているが(〈証拠〉)、62.3.27検面(36丁のもの)では、「エレガント春山へ向かう間、被告人はぶつくさ言いながらシンナーを吸っており、その言葉の中に『あの女ばかやろう。』というような言葉があったような気がするが、自信を持って言い切れないところがある。」としてこの点に関する供述を後退させ、動揺が見られたことが認められる。しかし、その後62.6.24に施行された裁判官による尋問では、再び明確に被告人は「あの女ばかやろう。」と言っていたと供述し、公判廷でも同様の証言をしている(3回公判)。このように、一旦動揺した供述が後に再び断定的なものに変わっているところ、その間の経緯については何ら説明がなされていないものである。

③ エレガント春山前で目撃した被告人の血痕付着箇所について

前記供述要旨のとおり、エレガント春山前で、被告人の胸に付着した血痕を目撃したとされているが、62.2.6上申書には、「けんかしたにしても、胸やひざの血があまりにもひどいものですから、『何やひどい血、ひどいけんかしたんやな。』と言った。」旨の記載があり、胸のほかにひざにも血が付いていたことに気付いたことが述べられているところ、ひざの血について言及したのは同上申書のみであって、その後ひざの血については一切触れられておらず、却って、被告人のズボンに血が付いていたかどうかはわからないと一貫して述べていることが認められ、この点も不自然な変遷というべきである。

④ 被告人から犯行を打ち明けられた内容について

前述のとおり、62.2.6上申書において、初めて、被告人から本件犯行を打ち明けられたことが供述されているが、同上申書の内容は、「被告人から『刺し殺したんや、あいつが逆らうで悪いんや。』と言われた。その前に種池町付近で被告人が『あの女ばかやろう。』などとぶつぶつ独り言を言っていたので、あいつというのは女のことで、女を殺したのやなと思った。」というものであり、同書面では「刺し殺したあいつ」が「女」であることまで説明されているが、被害者との結び付きが十分でないとされたのか、その後の62.2.11員面では、「被告人に『あいつって誰や。』と聞くと、被告人は『中学生の女や。』と吐き捨てるように言った。」として、「あいつ」が「中学生の女」であると説明され、本件被害者との結び付けがなされ、この点に関する供述が具体化・進展していることが明らかであり、同員面以降も同旨の供述がなされている。しかし、62.2.6上申書は、正直に供述を始めたとされているものであり、右被害者の特定に関する重大な事実を欠落させていたことについては、右上申書作成時にこれを失念していたとも考え難く、その間の経緯につき合理的説明がつかないものである。

(4) 供述の裏付けとなるべき客観的証拠がないことについて

中川二郎供述は、乙川供述と同様、それが真実であればその裏付けが得られると思われる事項について、客観的裏付けがないものがある。

すなわち、同人の供述によると、前記のとおり、犯行現場から戻って来た被告人は、右手の甲やその指先に濡れた血を、胸全体に大きな血を付けていたというのであるから、何度もスカイラインに乗・下車を繰り返すうちに、同車の外側・内側の各ドアノブ周辺や車内の助手席周辺にその血が付着する可能性が高いと思料されるのに、同車からは、被害者のものと考えられる血液反応が一切認められなかったものである。

この点は、同人の供述の信用性に少なからず影響を与える事情といわなければならない。

(5)  供述内容に不自然・不合理な点が見られることについて

① 被告人が血を身体等に付着させているのを目撃するなどしたとする中川二郎及び犯行直後における被告人の各行動について

中川二郎供述によると、被告人の手の甲や指に生々しい血が付いているのを認めたとしながら、同人が被告人に対しこれを洗い流すよう示唆したりしたことは一切供述されておらず、また被告人自身もこれに何ら対処することなく(同人の供述によると、被告人も当然自分の手の甲等の血に気付いていたと見るのが自然である。)、××団地から江守の里、エレガント春山、シティギャル、メゾンゆずり葉へと行ったとされている。また、エレガント春山前では被告人の胸元一帯の大きな血にも気付いた上、被告人から本件犯行を打ち明けられたとしながら、その犯行の痕跡である血について何らかの措置をとったとの供述はなく、しかも深夜とはいえ、被告人が胸に大きな血を付けたまま、乙川と連絡を取るため、交通量が多く人目に付きやすいと考えられる電車通り(通称「フェニックス通り」)近くにある公衆電話の方へ何度も電話をかけに行ったとしている。

犯行直後からメゾンゆずり葉へ至るまでの時間は、同人の供述によると、午後九時四〇分ころから翌日の午前一時ころまでの約三時間半という長時間であること、殺人を犯して身体等にその痕跡を生々しく残している者としては、その痕跡を可及的に速やかに消去しようとするのが当然の行動ないしは心理状態であること、そして、右痕跡を十分認識しながら被告人と同行していた中川二郎としても、同様の措置を取るよう被告人に示唆したり、あるいは少なくともその点を配慮するのが通常であると考えられることの諸点からすると、以上の供述内容は、極めて不自然であり、首肯することはできないというべきである。

また、同人が供述する被告人の身体等の血の付着状況からすると、何度も乗・下車したスカイラインのドアや車内にその血が付着する可能性が高いと思われるのに、同人及び被告人において、右の点を危惧して血の付着の有無を確認したり、あるいは付着した血を拭うなどしたとの供述は一切なされておらず、これも不自然といわざるを得ない。

② エレガント春山前で初めて被告人の胸の血に気付いたとしている点について

中川二郎の供述によると、××団地内で被告人の右手甲やその指先付近に濡れた血が付いているのを見たが、被告人の胸の血についてはエレガント春山前に行くまで気付かなかったとされている。しかし、右手の血を見た際の状況については、車のルームランプを点灯した上、運転席の方から助手席に座っている被告人に向かって被告人の持っているビニール袋の中に一リットルビンに入ったトルエンを注いでやったとしていること、当夜被告人は明るい色の上着を着ており、被告人の胸の血は、胸元一帯に広く付いていたとされていることから、胸の血は相当目立つ状態にあったと見るべきであることなどを考慮すると、右手の血と同時に胸の血にも気付くのが自然ではないかと考えられ、またその後も被告人は、中川二郎がその胸の血に気付いたとする時点までに、何度も車から乗り降りしていたとされており、その際に胸の血に気付きうるはずというべきである。

③ 被告人から本件犯行を打ち明けられた際の反応及びシティギャルに着いてからの行動について

中川二郎供述によると、エレガント春山前で被告人から本件犯行を打ち明けられた際、同人は直ちに「俺はいなかったことにしてくれ。」と被告人に言い、それ以上被告人の××団地での行動について尋ねることはしなかったとされている。しかし、同行していた被告人が女子中学生の殺人という重大な事実を仄めかし、その痕跡を身体等に生々しく露にしていたというのであるから、真実そのような殺人を犯したのかどうか、あるいは少なくとも××団地で何が起こったのかその具体的状況を問い質すのが普通であり、当時同人が保護観察付執行猶予中の身であって事件に係わりたくなかったとか、あるいは、被告人がシンナーの影響により単なるけんかを大きく言っていると思ったとかの一応の説明が加えられていることを考慮しても、右は不自然さを払拭できない供述である。

また、同人は、その供述によると、事件当夜被告人と長時間行動を共にし、その間の事情をよく知っている人物ということになるから、シティギャルにおいて被告人のただならない姿を見た乙川としては、直ちに中川二郎に対し一体何があったのかその事情を問い質すのが自然な流れと考えられるが、乙川からそのようなことを聞かれたとの供述も一切なされていない。

④ シティギャルに着いたころからの記憶がないことについて

中川二郎供述によると、シティギャルに着いて乙川と会うなどしてからは、被告人を乙川に渡したことと車の運転から開放されたことによる安堵感及びそれまでのシンナー吸入の影響等により、その後どこへ行ってどのようにして帰宅したのか一切記憶がないとされている。

しかし、前述したとおり、同人の供述を前提とすると、当夜は非日常的、かつ特異な体験をしたというべきであり、シンナーの影響を考慮してもその夜の出来事については強く、鮮明に記憶が残るのが普通と考えられること、被告人と二人だけの場面ないしはスカイラインを運転中における記憶については、詳細に述べているのに、岩沢四郎を除く関係者が登場する場面になると、途端に記憶が曖昧になるとも見られることの諸点からすると、合理的な供述とは思われない。

また、シティギャルからメゾンゆずり葉に向かってからの中川二郎に関する乙川の供述については、前記のとおり、曖昧である上不自然に変遷していること、後述のとおり、メゾンゆずり葉における中川二郎の存在に関する岩沢四郎及び丙沢明美の各供述内容も相互に矛盾していることを併せ考えると、関係者の供述が以上のように一致していないことにより、中川二郎も右のような曖昧な供述をせざるを得ないのではないかとの疑いを払拭できず、この点も同人の供述の信用性を減殺する事情とみられる。

⑤ 被告人から中川二郎に対し口止め等の働きかけが何らなかったとされている点について

中川二郎の供述の如く、被告人が本件犯人であり、犯行当時同人と行動を共にしていたとするなら、被告人にとって中川二郎は、自己の犯行を最もよく知っている人物ということになり、被告人と中川二郎とは事件当日までに一度だけ共にシンナーを吸うなどしたことがあるという程度のつきあいしかなかったとされていることをも勘案すると、被告人から中川二郎に対して、事件当夜の出来事については他言しないよう何らかの働きかけがなされて然るべきと思料されるところ、事件直後はもとよりその後もそのような働きかけがなされたとの供述は一切存在しない。

右に関し、中川二郎は、62.4.1員面で、被告人から本件犯行を打ち明けられた際、被告人に対し、「俺と一緒にいたってことを他人に言うなや。」と言ったので、被告人の方では改めて口止めする必要がないと思ったのだろう、と説明しているが、本件が殺人という重大事犯であることを考えると、その犯人が、右のようなことで自己の犯行をよく知っている人物に対する口止め等の必要性が消失したと判断するものか甚だ疑問というべきであり、この点の供述に関する不自然さがいまだ解消されていないものである。

(6)  以上の諸点によると、中川二郎供述は、乙川供述を前提とした取調べに迎合してなされた疑いを否定できないというべきであり、また中川二郎供述についても結局核心部分について確実な裏付けが存しないこと、同供述に沿うとみられる乙川供述の信用性は前述のとおりであり、岩沢四郎の供述も後述のとおり直ちに信用し難いものであることを総合すると、中川二郎供述については、全幅の信頼をおくことは相当ではなく、被告人と本件犯人との同一性を認めるに足りる程の信用性を有するものではないといわなければならない。

(なお、検察官は、同人の供述によって初めて捜査側において被告人の義兄前田治寿の住所を知ったものであり、右に関する供述は、いわゆる「秘密の暴露」に該当し、同人の供述の信用性を担保するものである旨主張するが、右前田治寿の住所を当時捜査側が探知していなかったことを認めるに足りる的確な証拠はなく、検察官の右主張は採用できない。)

4  岩沢四郎供述について

(1) 供述の要旨等について

岩沢四郎の供述は、62.1.27員面を初めとして、司法警察員に対する供述調書七通、検察官に対する供述調書三通(その内一通は、第一次証言の後である平成元年一月二四日に作成されたものである。)、公判廷における第一次証言(7、8回公判)及び第二次証言(35、36回公判)があるが、検察官の主張に沿う同人の捜査段階における供述(検面については、一部公判証言後のものを含む。)及び第一次証言の内容(以下これらを「第一次供述」という。」)は、大要、

「昭和六一年三月一九日夜、森景高一運転の車で友人の山田六郎方に行き、同所で山田とテレビを見ていると、『夜のヒットスタジオ』という番組を放送しており、アン・ルイスと吉川晃司とのセクシャルな場面のころに乙川から電話があり、山田運転の車でエレガント春山に向かった。山田、乙川との三人でシティギャルに行き、山田は帰り、乙川と二人で同店に入ってゲーム等をして遊んでいたが、乙川から、連れが来るので近くの稲荷神社付近まで迎えに行ってほしいと頼まれ、同所で白色普通乗用自動車スカイラインに乗った中川二郎と被告人の両名と落ち合い、その二人をシティギャルへ案内して乙川に引き合わせた。その後乙川の先導で被告人と中川を乗せたスカイラインを運転してメゾンゆずり葉二〇一号室の丙沢明美方に行き、同所で被告人の胸に血が付いているのを目撃し、しばらくして森景に電話して車で近くの近新家具前まで迎えに来させ、福井市内を走り回るうち、本件発生に伴う警察官による検問を受けた。」というものであり、本件発生後シティギャルまで中川二郎と血を付けた被告人が赴いたことなどを内容とする乙川及び中川二郎の各供述を裏付ける重要な供述である。

しかし、岩沢は、その後供述内容を大きく変え、その第二次証言において、大要、

「昭和六一年三月一九日夜は、森景と共に福井市二の宮所在のうどん店『得得』へ食事に行き、同店で、客として来た知り合いの『アキ』という女性(川原冬子)が自分たちに親しく挨拶をしたところ、同女の連れの男性(福田七夫)が腹を立て、同女に椅子を投げつけるなどするのを見た。その後同店駐車場で山田六郎と会ったので、同人に覚せい剤を注文し、翌日午前零時ころ、ショッピングセンター『ピア』駐車場で取引することにし、同時刻ころ、同所で同人から覚せい剤を譲り受けた。その後森景運転の車で福井市内を走行するうち、本件発生に伴う検問を受けた。これまで供述してきた経過のうち、すなわち山田六郎の部屋にいると乙川から電話がり、エレガント春山及びシティギャルへ山田の車で行き、シティギャルで乙川に頼まれて被告人を迎えに行くなどした後、メゾンゆずり葉二〇一号室において、被告人の胸の血を見たという点は、そのような事実はあったが、三月一九日夜のことではない。」と供述するに至った。

まず、前記第一次供述については、その記憶の主たる根拠として、第一に、被告人の胸に血が付いているのを目撃した日に本件発生による検問に遭遇したこと、第二に、山田六郎方で「夜のヒットスタジオ」という音楽番組を山田と二人で見ていたが、アン・ルイスと吉川晃司とのセクシャルな場面を見ていたころに乙川から電話があったことの二点を挙げており、また、第一次証言における弁護人の反対尋問に対しても証言は揺るがなかった上、その第一次証言後に弁護人と面談して同証言を一旦は弁護人に対して否定しながら、その後の元.1.24検面では、再び第一次供述と同旨の供述をしたものであって、以上の諸点に徴すると、岩沢の第一次供述の信用性は高いとも考えられるところである。

しかし、右のように、同人の供述は、大きく動揺、変遷しており、その事実自体から同人の第一次供述の信用性は相当減殺されているといわざるを得ないが、その供述の経緯及び変遷の理由、供述内容の合理性、他の参考人の供述との関係等を勘案して右信用性を慎重に決しなければならない。

(2) 供述の経緯及び変遷の理由について

右のように供述を変遷させた理由に関し、同人は、公判廷において、同人に対する取調べは、昭和六二年一月に始まり、当初、同人は、第二次証言のとおりの記憶があったので、取調警察官に対し同証言と同様、昭和六一年三月一九日夜は、森景とうどん店「得得」に行って福田らのけんかを目撃し、その後本件発生による検問に会った旨(山田との覚せい剤取引の件は秘していた。)を供述したものの、取調警察官から、「福田や山田も『得得』の件のあった日は三月一九日の夜とは違う日だと言っている。三月一九日夜山田の所にいると乙川から電話があっただろう。」などと言われたため、自分の記憶に自信がなくなり、三回目位の取調時に供述を変え、その後も気持ちの中では引っ掛かりを残しながら、検察庁での取調べや第一次証言においても同様の供述を維持してきたが、昭和六三年九月に吉村弁護士と会った際に岩沢の方から同弁護士に対し第二次証言に沿った話をし、平成元年四月には勝山市の喫茶店で森景と二人で同弁護士と面会して同様の話をし、同年六月六日には証人福田や森景の各証言を裁判所で傍聴し、福田も「得得」の件は三月一九日夜の出来事であることを述べていることを知り、自分の当初の記憶が正しいと思った旨証言している(35、36回公判)。

そこで右証言によって示された供述の変遷理由に合理的裏付けがあるか否かを検討するに、板垣喜和の公判証言(20回公判)によると、岩沢に対する事情聴取を開始したころ、捜査側においても、「得得」店内での福田と連れの女性との揉め事につきその事実の有無及び時期に関して裏付け捜査を実施した形跡が認められることからすると、取調当初、岩沢が第二次証言に沿う供述をしていたが取調警察官から説得されて第一次供述となったとの部分は、十分信用することができること、本件発生に伴う検問に遭遇した際、山田から譲り受けた覚せい剤を所持していたのでこれを発見されないかと危惧したとの説明は説得力があり、合理性を有するものと見られ、前記供述の変遷理由に関する証言については、その信用性を容易に排斥することはできないというべきである。

更に、証人森景は、公判廷において、「三月一九日夜は、午後九時か一〇時ころ、岩沢と「得得」へ食事に行き、同店で知り合いのアキという女性と連れの男がけんかするのを見た。その後同店駐車場で山田と会い、山田は岩沢に福田の所まで来てほしいと言っていたが、岩沢はこれを断り、山田に覚せい剤を譲ってくれるよう依頼していた。翌日午前零時に『ピア』で山田と覚せい剤の取引をし、それから福井市内を走行するうち、本件発生による検問に会った。」旨の岩沢の第二次証言とほぼ同一の証言をした上、捜査段階や証人出廷前の段階では、右と異なり、元.3.4検面等で岩沢の第一次供述に沿う供述をしていた理由について、「昭和六二年初めころ、福井警察署で前記検問に会った日の行動について取調べを受け、山田との覚せい剤取引の件や『得得』の件を記憶していたのでそのとおり述べたが、取調警察官から『得得』の件があった日と検問の日は違うと言われた。少し期間をおいて二回目の取調べを受け、前同様供述したが、警察官はこれを受け入れてくれず、岩沢や福田も『得得』の件があった日は違う日であると言っていると聞かされ、結局、自信がなくなって調書作成に応じた。」旨証言しており(28回公判)、同人も取調当初は、岩沢と同様山田から覚せい剤を譲り受けた日に本件発生に伴う検問に遭遇したことを記憶の拠り所に、岩沢の第二次証言と同旨の供述をしたが、取調警察官がこれを受け入れなかった事情を述べており、その経緯は前記の岩沢証言とよく符合する上、前記板垣証言によって認められる、捜査側が本件捜査期間中に「得得」の件に関して裏付け捜査を実施した事実とも符合するものであって、岩沢の前記証言の信用性を裏付けるに足りるものというべきである。

検察官は、右両名の証言に関し、覚せい剤を譲り受けてこれを隠匿所持している岩沢らが、深夜、車で走行中に警察官の検問を受けて同車内を検索され、その際本件殺人事件の発生を聞いたことにより、市内各所において検問が実施されていることを予想し、したがって覚せい剤を発見されるおそれがあると危惧するのが当然であるにもかかわらず、同人らにおいて右殺人現場を探し回ったりしてその後も市内をうろうろと走行したというのはおよそ考えられないとして、各証言の信用性を論難するが、岩沢らが殺人事件の発生を聞いてこれに興味を持ち、その現場を探しに行くというのは不自然ではないし、所持している覚せい剤についても、最初の検問の際の検索では発見されなかったというのであるから、これを発見されるかも知れないことについてさほど危惧感を抱かなかったとしても不自然・不合理と決めつけることはできないというべきである。

また、山田六郎は、公判廷において、「森景運転の車で自宅へ来た岩沢を三階の自室に入れて食事を与えたことがあり、そこへ乙川から電話があって岩沢と二人でエレガント春山へ行った。そこで乙川を乗せてシティギャルへ行き、自分は帰った。その日は本件発生日のころだが、三月一九日という記憶はなく、何曜日かも覚えていない。また、『夜のヒットスタジオ』という番組で放送されたアン・ルイスと吉川晃司とのセクシャルな場面を見た記憶はあるが、これを岩沢と一緒に見たという記憶はなく、その場面のことで同人と会話を交わした記憶もない。更に別の日に、福田七夫から頼まれて『得得』まで岩沢を呼出しに行ったことがある。すなわち、その日の夕方、岩沢から覚せい剤を譲ってほしいとの電話があり、午前一時に『ピア』の駐車場で同人と会うことにし、午後八時か九時ころに『ピア』の近くの喫茶店『パリス』に行ったが、午前零時ころ、同店で働いている福田から、『得得』で冬子と食事をしていると岩沢らとちょっと揉めたので岩沢を連れて来るよう頼まれ、同店へ行き、岩沢と森景と会った。岩沢に頼まれて同人が既に同店にいなかったと福田に報告することにし、岩沢と前記覚せい剤取引の確認をして別れ、その後前記時刻、場所で同人に覚せい剤を譲り渡した。その日がいつであるかはわからない。」と証言し、次いで捜査段階における取調状況について、「昭和六二年一月ころ、警察官から事情聴取を受け、自宅に来た岩沢とエレガント春山に行き、乙川らとシティギャルに行くなどした日はいつであるか聞かれたが、これについては記憶がなく、わからないと答えたものの、取調警察官から、岩沢や森景がいずれもその日は三月一九日夜だと言っていると聞かされ、これに話を合わせた。」と証言しているところ(30回公判)、右証言内容のうち、同人に対する当初の取調状況については、岩沢や森景、に対する取調状況と一致し、捜査側において、右関係者らの供述内容のうち、乙川供述に沿う部分を事件発生当夜の出来事として一致させようとしていたことが窺われるものである。

そして、刑事訴訟法三二一条一項二号書面として取調べられた森景(元.3.4)及び山田(元.1.31)の各検面についても、警察官に対して供述した内容を否定することができずにそのまま述べたものと推認することができ、これらをもって岩沢の第一次供述を裏付けるに足りるものということはできない。

なお、ここで福田七夫こと七夫の供述について検討するに、同人は、公判廷において、昭和六一年三月中旬ないし下旬ころ、当時同棲していた川原冬子と「得得」へ食事に行って同女が同店に居合わせた岩沢らに手を振って挨拶したので腹が立ち、同女とけんかをしたことなど、この点に関する岩沢、森景、山田らの供述とほぼ同内容の証言をし、その日の特定については、「当日は、『得得』の駐車場の融雪パイプから水が出ており、雨も降っていた。『得得』から出て東西方向に通ずる道路のうち西に向かう道路の左側車線が工事中だった。また、その日に自分が働いている喫茶店『パリス』で『夜のヒットスタジオ』という番組を見て、アン・ルイスと吉川晃司とのセクシャルな場面を見た記憶がある。更に川原冬子の日記の昭和六一年三月一九日欄には『何も書きたくない。』との記載があり、これは『得得』でのけんかがあった日のことだと思う。」と証言している(28回公判)。

しかし、同人が川原冬子とけんかした日が三月一九日であるとする根拠として述べる部分については、その日のテレビ番組の内容まで記憶していたとは、特段の事情がない限り考え難いこと、同女の日記についてもけんかの事実が直接記載されているわけではなく、その日記自体紛失してしまったとしていることから、直ちに首肯することができず、また弾劾証拠として取調べた同人の元.1.19員面の内容は、右川原とけんかした日については明確には覚えていないというものであることを勘案すると、同証言中、右川原とけんかした日の特定に関する部分については、信用することができないものである。

(3)  供述内容に不自然・不合理な点がみられることについて

① スカイラインに装着されたカーステレオに関する供述の食い違いについて

62.1.28員面(本文一七丁のもの)によると、右取調当時福井警察署内に保管されていたスカイラインと本件発生の翌日午前零時すぎころに岩沢がシティギャルからメゾンゆずり葉まで運転したというスカイラインとの同一性に関し、福井警察署に保管中のスカイラインに装着されたパイオニア製の当時の最新型カーステレオ「セントレード」と同一のカーステレオ装置が本件当時に運転したスカイラインにも装着されていたとしてその装置の特徴を指摘して右同一性を肯定していたことが認められるところ、その後の捜査で本件当時に運転したスカイラインには、右最新型のカーステレオが装着されてはおらず、古い型のものが取り付けられていたと告げられるや、62.3.4員面では自分の勘違いであったと従前の供述を変更し、その理由として、当時の友人らの車に同様の最新型のカーステレオが装着されていたのでこれを見た印象が残り、62.1.28員面のような供述をしたとしているが、そのようなことで混同を来すかどうか疑問であり、右供述の変更に合理性があるとは思われず、結局、具体的・明確な記憶がないのに、スカイラインの現物を見せられ、取調官に迎合して安易に供述したものと考えるのが相当である。

② メゾンゆずり葉において被告人の胸の大きな血痕を目撃したとしながら、これにあまり注意や関心を示していないことについて

岩沢供述によると、メゾンゆずり葉二〇一号室で被告人の胸に、例えば62.3.24検面では、長径約一五センチメートル、短径約八センチメートルの楕円形の大きな血とその周りに飛び散ったように付いている細かい血を見たとしているが、岩沢において、被告人に何があったのか尋ねたりはしておらず、専ら丙沢明美と話をしていたもので、同女も被告人に対し話しかけたりはしなかったとされている(第一次証言等)。しかし、被告人がシンナーを吸った上でけんかをしてきたと思ったなどと説明がなされているものの、大きな血を胸に付けた被告人の異常な姿を目のあたりにしたとすれば、一体何があったのか、被告人にはけががないのか等の点につき関心を持つのが当然の推移であって、少なくとも同室内におけるその言動等に注意を払ったとの供述がなされて然るべきと思料されるのに、そのような供述は一切なく、被告人に関しては、単に、「ただボーッとしていた感じ」(7回公判)、「(被告人が何をしていたのか)忘れた」(8回公判)、「(乙川の『何して来たんや。どうしたんや。』との問いに対し)アー、とかウーとか言うのみではっきり聞き取れなかった。」(〈証拠〉)という供述が存するのみである。なお、被告人の血の付着状況については、62.1.29員面では、「服に血が付いている割りには手や顔にけがをした部分がなく不思議に思わぬでもなかった。」と述べ、手や顔への血の付着は認めていないと推認される供述をしているほか、公判廷の証言でも、顔や手は薄汚れていたとは述べているが、血の付着については述べておらず、その点は、乙川が被告人の顔、口の周り、手にもみんな血が付いていたとの供述と反するものである。

また、丙沢明美についても、深夜自室に血を付けた異常な姿の被告人が来たのであるから同様に被告人に関心等を抱くのが当然であるのに、同女がそのような関心を外部に示した供述が一切なされておらず、この点も不自然さが看取されるところである。

③ 被告人の言動について

岩沢が稲荷神社付近で被告人と会ってからの被告人の言動については、岩沢供述では、胸に大きな血を付けていながらこれらに何ら対処することもなく単にボーッとしているだけとされており、シンナーの影響を考慮しても、殺人を犯して助けを求めて来た人物の行動としては、著しく臨場感に欠けた供述であり、実在感や切迫感が伝わって来ないものである。

(4)  他の参考人の供述との不一致について

① 中川二郎がメゾンゆずり葉二〇一号室に来たかどうかの点について

岩沢供述によると、中川二郎はメゾンゆずり葉二〇一号室に入って、ほとんどしゃべらずにシンナーを吸っていたとされているが、丙沢明美は、後述のとおり、中川二郎が右自室に来たことはないと明言して岩沢供述と真向から対立する供述をしているし、乙川は、前述のとおり、中川二郎の行動について極めて曖昧な供述に終始しているものである。

このように中川二郎の存在ないし行動について、関係者の供述が一致しないことについては、合理的な理由が見出せず、各供述の信用性を判断するについて解消しえない疑問が残るものというべきである。

② スカイライン車内にあったという袖口に血のついたダウンジャケットについて

62.4.9員面及び同日付検面によると、岩沢がスカイラインを運転してメゾンゆずり葉前に着き、車を駐車させる際、コンソールボックス上にナイロン地でやや茶色系が混じったクリーム色のダウンジャケット様の服が丸められて置かれており、その袖口に血が付いているのを見たとされているところ、シティギャルまで同車を運転し、そのような血の付いたダウンジャケット様の服がコンソールボックス上にあれば当然これに気付くはずの中川二郎の供述中には、これに触れたものが一切なく、同人の供述では被告人の当夜の服装につきトレーナー様の明るい上着を着ていたとされているし、乙川の供述中にも袖口に血の付いたダウンジャケット様の服は登場しないのであって、岩沢の右供述は、特異なものというべきである。

(5)  供述の核心部分に裏付けがないことについて

乙川及び中川二郎供述が信用するに足りないことは前述のとおりである。

また、当時メゾンゆずり葉二〇一号室に居住していた丙沢明美が、岩沢の第一次供述に沿う供述をしているが、後述のとおり、同女の供述も信用性に欠けるものであって、結局、岩沢供述については、その核心部分につき裏付けがないものといわざるを得ない。

(6) 以上のとおり、岩沢供述については、その第一次供述はもとより、メゾンゆずり葉において血を付けた被告人を見たなどとする供述もその信用性に問題があり、同供述によって、本件事件発生後、その着衣等に血を付けた被告人が中川二郎と共にシティギャルに来て、その後メゾンゆずり葉に向かった事実を認めるに足りないといわざるを得ない。

5  丙沢明美供述について

(1) 供述の要旨等について

同女の供述は、61.12.7員面を初めとして、司法警察員に対する供述調書四通、検察官に対する供述調書一通及び公判廷における証言(7回公判)があり、検察官の主張に沿う捜査段階における最終的な供述及び公判廷における証言の内容は、大要、

「昭和六一年三月二〇日午前一時すぎころ、着衣に血を付けた被告人に似た男が、乙川清、岩沢四郎と一緒に、同女が当時居住していたメゾンゆずり葉二〇一号室に来た。その後、乙川と岩沢がそれぞれ被告人に似た男を同室に残したまま自室から出て行き、明け方ころ乙川が今度は丁海保夫を連れて自室を訪れ、同所で覚せい剤を使用するなどして両名はエレガント春山へ行き、乙川から被告人に似た男を後からエレガント春山まで来させてくれと頼まれ、そのようにした。」というものであり、乙川、岩沢、丁海保夫の各供述内容に沿うものである。

しかし、同女の一連の供述内容を見ると、後記のとおり不自然に変遷を重ねるなどしており、その信用性については問題が多く、慎重な検討が必要である。

(2) 供述の変遷について

同女の当初の供述内容を見ると、「昭和六一年三月中ころの午前一時すぎころ、乙川が、確か薄手のハイネックシャツに血を付けた(胸から腹にかけて細かく点々と飛び散ったような感じ)男とそのほか一人か二人の男を連れてメゾンゆずり葉二〇一号室に来たが、その血の付いた服を着た男の顔は全く思い出すことができず、その年令、身長、体格、髪型についても思い出せない。(被告人の写真を見せられて)血の付いた服を着た男がこの男かどうかはわからない。乙川と一緒に遊んでいた仲川一郎は知っているが、その時乙川が同人を連れて来たかどうかはわからない。乙川が何故血の付いた服を着た男を連れて来たのか、また二〇一号室で乙川らが何をしたのかは全く思い出せない。」というものであったところ(〈証拠〉)、61.12.19員面では、「服に血を付けた男が誰であるかは思い出せないが、汚い感じの男なので、警察官から見せられた一二枚位の写真の中から選べば被告人であるし、乙川と一緒に来た人物も同人の使い走りをしていてメゾンゆずり葉二〇一号室でよくシンナーをしていた男と考えると仲川一郎である。」と述べ、中川二郎の写真を見せられて、「中川二郎は知っている人で私が『むつ』に働くようになったとき、世話してくれ、同店に三回位来ているが、右二〇一号室には一度も来たことがないと思う。」と述べ、更に「服に血を付けた男と同室の玄関付近で向かい合ってその男を見たことを思い出した(なお、同日作成の図面によると、両手先にも血が付いていたようになっている。)。その後の右の男や自分の行動は覚えていない。乙川と服に血を付けた男が来て二、三時間してから、乙川が丁海保夫を連れて来た。丁海は、西山会事務所の当番を抜け出し、同組本部長のキャデラックに乗って来たと言っており、実際に外に出てそのキャデラックを見た。その日はごみを捨てる日になっている木曜日であり、他の木曜日における自分の行動を考えると、三月二〇日に間違いない。」としており、明確ではないものの仲川一郎が乙川と同行していたとしたほか、後刻丁海保夫が自室に来た事実が加わり、服に血を付けた男が自室に来た日の特定もなされている。

更に62.1.26員面によると、その間に前記のとおり乙川清が仲川一郎と言っていたのは実は中川二郎であると供述を変えたのに合わせたように、「今まで乙川と一緒に来たのは仲川一郎であると言ってきたが、実は岩沢四郎である。乙川が服に血を付けた男を連れて来て『こいつ、けんかして来たんや。四郎が車を置きに行ったので、後で入れてやってくれ。』と言い、二、三分後に岩沢が来た。そのことは取調べ当初から記憶にあったが、同人が同郷で昔のシンナー仲間だし、年上だったので今まで隠していた。四人で話をしていると乙川が『俺、後始末に行って来るのでこいつ置いてやってくれ。』と言って出て行き、その後同人と丁海保夫が来たときには岩沢はいなかった。服に血を付けた男は丁海を見ると立ち上がって挨拶をし、丁海がその男を座らせると男は何か訳のわからないことを言っており、丁海は乙川に『こんなのどうするんや。』と言っていた。乙川と丁海が帰るとき、乙川は服に血を付けた男に『後で俺の部屋に来い。』と言ったように記憶しており、ごみを出しに乙川と一緒に外へ出た際に同人から『あいつ頼むぞ。』と言われ、部屋に戻り、ある程度時間が経過してから、服に血を付けた男に時刻を告げたところ、男は何も言わずに出て行った。」とし、仲川一郎に代えて岩沢四郎が登場し、乙川及び丁海の当時の言動や男の行動等が具体化されている。

62.4.14検面は、概ねそれまでの供述をまとめた内容になっているが、服に血を付けた男の特定に関し、「顔ははっきりとは覚えていないが、それなりのイメージは持っており、写真をみればある程度は分かる。(被告人を含む四六枚の写真を示されて)断定はできないが、七番の男(被告人)のイメージがよく合っている。」としたほか、血の付着状況については、「大小いろいろあったが、大きいものはかぶと虫大で楕円形に近く、かぶと虫を上から見たような形であり、そのほかに点々と付いていた。左右どちらかは分からないが、鼻血を手で拭いたような感じで手の甲にも血を付けていた。」とその内容を具体化させ、丁海の行動につき、「部屋に入って来た丁海は、血を付けた男に『もういいかげんにしろや。』と叱っていた。その男がシンナーばかりを吸っていたのでそれを怒ったのだと思う。その男は、丁海に対しては素直に答え、ぺこぺこした感じだった。」という事実が新たに加えられている。

以上のように、捜査段階における同女の供述は、当初の供述において全く記憶がないかあるいは不明確な記憶しかないとされていた事項につき、その後次第にその内容が明確、具体的になったり、一部その内容が変遷していることが明らかである。もとより時を経るに従って記憶が甦る場合がないとはいえないにしても、その最終的な供述内容からするとその大部分は当初から記憶が残っていて然るべき事項と考えるのが相当である。特に当初乙川や服に血を付けた男と同行した人物はわからないとしながら、その後右人物は仲川一郎であるとし、更にこれを否定して実は岩沢四郎が一緒だったとした点、後刻丁海保夫が自室に来たとの点及び乙川、岩沢、血を付けた男らの各具体的行動についてはそれぞれに関する供述内容の変遷、進展が乙川らの供述の変遷と一致していることからすると、関係者の供述内容に基づく捜査官の取調べに対し、明確な記憶がないのにこれに迎合して供述した疑いが強いものである。

また、当初、岩沢四郎のことを隠していた理由として述べる部分も、ことさら仲川一郎を持ち出すまでして岩沢のことを隠さなければならない必要性を裏付けるものとは到底いい難く、納得しうるものではない。

(3) 岩沢供述との不一致について(中川二郎に関する供述について)

前記のとおり、岩沢は、被告人や乙川と共に中川二郎もメゾンゆずり葉二〇一号室に入った旨を一貫して供述しているのに対し、丙沢明美はこれを否定する供述をしている。同女の供述によると、中川二郎については同女の勤め先を世話するなどしてもらった関係でよく知っているということであり、岩沢供述が真実とすれば同女の記憶に残らないはずはなく、何故、両名のこの点に関する供述に不一致があるのか合理的説明ができないものである。

(4) 供述内容に不自然な箇所があることについて

同女の供述によると、胸辺りに血を付けた異様と思われる男と自室において相当長い時間を二人だけで過ごしたとされているのに(なお、当初は、その男がどうしたかは記憶がないとしていた。)、何にも感じなかったとしていること、及び同女の被告人に似た男の言動に関する供述に、前述した岩沢供述と同様、臨場感や実在感がないことについて、不自然さが看取されるところである。

(5) 取調当時の同女の立場

検察事務官作成の63.1.8捜査報告書及び交野女子学院長作成の捜査関係事項照会回答書によると、同女は、昭和六一年九月二六日に覚せい剤取締法違反事件で逮捕され、同年一一月六日から少年院(交野女子学院)に入院中であった者(収容期間は、昭和六二年七月一六日まで)であり、本件取調べについては、福井警察署の警察官が同少年院まで赴いてこれを実施したことが認められる。

(6)  以上検討したとおり、同女の供述には、変遷過程や内容自体に疑問点が多く存在し、そのほか他の関係者の供述同様客観的裏付けがないこと、取調当時の同女の立場、年齢等によると、取調警察官の意向に反し難い状況にあったものと思料されることの諸点に徴すると、その信用性を肯定することはできないものというべきである。

6  丁海保夫供述について

(1) 供述の要旨等

丁海保夫の公判証言(8回、9回公判)は、一部曖昧な点や8回公判と9回公判における各証言間で変遷等している部分があるが、その最終的な内容は、大要、

「昭和六一年三月一九日深夜から二〇日にかけて、西山会事務所で当番をしていると、誰か分からないが乙川清の関係者と思われる男性から乙川の居場所を知りたいという電話があり、同人のポケットベルを鳴らし、事務所に電話してきた男のことを伝え、当時同人がいた場所であるシティギャルの電話番号を聞き、再び電話をかけてきたその男に同番号を教えたような記憶がある。

その後、同事務所に来た乙川から『車どうにかならんか。』と言われ、仕方なく西山会本部長のキャデラックを持ち出して使うことにした。その車の中で乙川から『覚せい剤を一発ほやこまいか。』という話があり、また『丙沢明美の部屋で被告人らがシンナーをして明美が困っている。追い出してやってくれ。』、『被告人がやばいことしてきたんや。』という話もあった。午前四時ころメゾンゆずり葉二〇一号室に着き、同室には被告人と丙沢明美と誰であるかは忘れたがもう一人いた。被告人は、同室でシンナーを吸っており、胸元と首筋に血が付いていた。被告人にその首筋の血を洗いに行かせた。同室で覚せい剤を使用し、その後被告人に後から来るように言って乙川とエレガント春山に行った。」というものであり、乙川、丙沢らの供述内容とほぼ一致している。

(2)  供述の変遷・動揺について

同人の右証言については、捜査段階の供述内容とは大きく異なる部分があると認められ、また、8回公判と9回公判との間でも証言内容が大きく異なっており、その間の事情を検討しなければならない。

① 取調当初、仲川一郎を関係者として登場させていたことについて

丁海の公判証言によると、同人は、昭和六一年一二月ころの横浜に滞在していた当時、吉川七郎の案内で警察官二名が横浜まで丁海を迎えに来て、吉川から警察が探している、任意に応じなければ別件で逮捕すると警察が言っていると聞かされ福井に戻って本件に関する事情聴取が開始されたものであることが明らかにされ、更に、同人は、取調当初、同年三月一九日深夜から翌日にかけてのことは記憶にないと供述し、その後具体的な供述を始めたものであるが、その際、西山会事務所から乙川と二人でメゾンゆずり葉二〇一号室に行くと、丙沢明美や被告人と一緒に仲川一郎が同室に居たと供述していたものの、その後同人物については誰かわからないと供述を変更したことが認められる。右のように取調当初の時期に仲川一郎が本件に関係していることを供述したのは、この点に関する当初の乙川供述や同供述に基づいて仲川一郎を逮捕までした捜査官側の意向の影響を受けていることが明らかというべきである。この点に関し、丁海は、当時仲川一郎が乙川と一緒によく行動していたので、自分の考えでその名前を出したと証言しているが、一方で、その人物はすぐに逃げ出したとか、その顔を見たわけではないなどという曖昧な証言をもしており(9回公判)、これを信用することはできないものである。そうすると、同人の右仲川一郎に関する当初の供述は、他の箇所でも同様に、体験していない事実につき捜査官の意向や関係者の供述内容等に合わせてあたかも真実であるかのように供述しているのではないかとの疑いを抱かせるものというべきである。

② キャデラックでメゾンゆずり葉へ向かう際に乙川から聞いた被告人に関する話の内容について

丁海の公判証言によると、同人は捜査段階において検察官に対し、西山会事務所から乙川と二人でメゾンゆずり葉に向かうキャデラックの車内で乙川から聞いた被告人に関する話につき、「乙川から『三夫が人を殺してきたと言ってきているんやが。』という話を聞いた気がするけれども、言葉の詳しいところまでは覚えていない。」と供述していたことが認められ(8回公判)、当時乙川から被告人が殺人事件を犯したことを聞いた旨を供述していたことが明らかである。しかし、同人は、公判廷では、右乙川の話に関し、「乙川から、丙沢明美の部屋に何人かいてシンナー遊びをしているので、同女が困っているから来てくれ、と聞いた。被告人らが明美の部屋でアンパンしていると聞いたかも知れないがはっきりしない。」と証言したほか(8回公判)、9回公判では、検察官の主尋問に対しては、「乙川から最初車の中で、女の子が困っているということを聞き、何でやと聞くと、初めはけんかしたとか言っていたが後で、被告人がどうしようもないことをしたんや、と言っていた。その具体的な内容は覚えていない。」と証言し、弁護人の反対尋問に対しては、「被告人らが明美の部屋でアンパンしていると聞いたことは間違いない。」、「被告人がやばいことしてきたというのは聞いたが、内容までは聞かなかった。」、「まずいことになっている、ということしか聞いていない。」と証言し、更に裁判官の補充尋問に対し「殺したとかは聞かなかった。やばいことをやったんやって、その言葉だけ聞いた。」と証言している。

右のように、捜査段階において、乙川から被告人が殺人を犯したと言ってきたという重大な事実を聞いたとしていたのに対し、公判証言では、この点が曖昧になり、大きく変遷していることが明らかである。しかも、9回公判における証言も子細に見ると、「被告人がどうしようもないことをしたんや、と聞いた。」、「被告人がやばいことしてきたというのは聞いた。」、「まずいことになっている、ということしか聞いていない。」というように、乙川の発言内容についての証言が微妙に異なっており、丁海の記憶するその具体的な発言内容がどのようなものであるのか不明確となっている。

そこでその変遷の理由が問題となり、乙川から被告人が殺人を犯したと言っている旨聞いたとすれば、右事実について記憶違いなどをする事態は到底考えられないところ、この点同人の証言には何ら説明がなされていない。そうすると、同人の検面の内容については、乙川の捜査段階における供述内容(例えば、62.1.14上申書では、丁海に「おい、三夫が人殺してしもたって血だらけで来たんやけど、今日殺人事件なんかあったんけ。」と言ったとしている。)の影響を受けている疑いがあるというべきである。右のように同人の検面の内容が公判証言のように変遷した理由が明らかではないこと、公判証言自体も8回と9回公判との間で大きな変遷があり、9回公判証言における乙川の発言内容についても微妙に異なる表現となっていることを考慮すると、以上の経過については首肯すべき合理的な説明をすることができず、明確な記憶がないのに、これがあるように証言している疑いが残るものといわなければならない。

③ その他―血の付着状況等について

また、同人の公判証言によると、同人は捜査段階において検察官に対し、メゾンゆずり葉で会った被告人の着衣や血の付着状況等について、「上半身はシャツの上にブルゾンかジャンパーを羽織っており、そのシャツは丸首のトレーナーだった。被告人の首筋や服の胸元に血を付けていた。そんなにたくさんというふうではなかったと思うし、点々と付いているというほど少なくもなく、血がシャツの胸元辺りに付いていた記憶がある。首筋についてはどちらの首かは記憶はないが、たくさんではないが血が付いていたことは間違いなく、被告人に洗ってこいと言うと被告人がすぐに台所まで洗いに行ったことははっきり覚えている。」などとかなり明確に具体的に供述していたことが認められるが、公判証言では、いずれも曖昧になっており、その間の理由についても納得できる説明がなされていないものである。

④ 8回公判と9回公判における証言が異なることについて

丁海の8回公判の証言においては、検察官の質問に対する答えが、捜査段階とは異なったり、曖昧な答えに終始しており、特に被告人の胸や首筋に血が付いているのを見たかどうかの点を曖昧にしているのに対し、続く9回公判においては、これを明確に肯定したほか、捜査段階の供述に沿う供述をするに至ったものであるが、その間の事情につき、同人は、「8回公判では、被告人が西山会の幹部と親戚関係があると聞いており、また被告人とは一緒に飯を食べた仲なので、被告人を前にして被告人に不利益な事実を証言することはできなかった。9回公判では、現在属している暴力団組長から、男らしくはっきり言えと言われたことや被告人自身も自分がやったことについてはきちんと責任をとるべきだと思うようになったので、真実を証言した。」などと証言するが、他方、これ以上の証言出廷を嫌悪していたことも述べているほか、被告人の面前でその不利益事実を証言し難いほど、同人と被告人とが親交していたとは関係証拠によっても認めるに足りないなど、右証言内容は必ずしも説得力を持つものとはいえないこと、符一四号の録音テープによると、昭和六二年四月六日、同人は弁護士事務所において、弁護人に対し、事件当夜被告人がメゾンゆずり葉に来ていたかどうかはわからないと説明し、更に被告人の着衣等に付いた血を見たとの捜査段階の具体的供述は関係者の供述に迎合したものであると説明したことが認められること、前述した供述の変遷のほか、後述するように同人の証言内容に数多くの疑問点が存することの諸点に徴すると、8回公判証言の方が正しい記憶であり、9回公判証言は捜査段階における自分の供述を否定することができずになしたものと考える余地が十分あるというべきである。

(3)  供述内容に不自然あるいは曖昧な箇所が見られること及び他の関係者の供述と矛盾することについて

① 乙川の居場所を聞いてきた人物の特定等について

丁海証言によると、事件当夜西山会事務所で当番中、誰かはわからないが、事務所に乙川の居場所を問い合わせる電話があり、その者の電話番号を聞いた上、ポケットベルで乙川を呼び出し電話をかけさせて同人がシティギャルにいることを聞き出し、再び電話してきた前記人物にシティギャルの電話番号を教えたとしているところ、右のうち乙川をポケットベルで呼び出してからの経緯については証言が極めて曖昧で、検察官の示唆、誘導によりようやく右内容の証言になったものであるが(〈証拠〉)、この点については、同人が右のような取扱をした事実があるとすれば、容易に右経緯を証言することができるはずであり、真実右取扱をしたことがあるのか疑問をいれる余地がある。また、右のように、乙川に対する取り次ぎを依頼されたというのであれば、当然その名前を聞き、これが印象に残るものと思料されるところ(右のような取り次ぎは、まさに事務所当番者の重要な役目であり、その意味からも印象に残るものと考えられる。)、終始誰から電話があったのか覚えていないとしているのであって、これも直ちに納得できない証言というべきである。

そして、この点に関する乙川及び中川二郎供述を前提とすると、西山会事務所に電話をして乙川の居場所を問い合わせる人物としては、被告人か中川二郎しか考えられないところ(なお、中川二郎は、前述のとおり自分が右電話をした事実を否定しているし、丁海は、右電話をかけてきた人物は被告人ではなかったと思うとしている。)、右両名についてはいずれも当時丁海とはつきあいがあったのであるから、そのいずれかが電話をかけてきたとすれば、当然丁海としてもその者が被告人であることないしは中川二郎であることがすぐに識別することができ、その旨ポケットベルに応じて事務所に電話してきた乙川に明確に伝えることができたはずであり(乙川供述の如く、「ナカガワ」ってのから電話があったと未知の人物であるかのように述べることも考えられない。)、丁海証言のように右電話をかけてきた人物を特定できないというのは、結局、乙川、中川二郎供述と大きく矛盾するものと評価することが可能である。

② キャデラック車内で聞いた乙川の話の内容及びメゾンゆずり葉二〇一号室での被告人に対する言動等について

前述のとおり、丁海は、メゾンゆずり葉に向かうキャデラックの車内で乙川から、「被告人を含む何人かが明美の部屋でシンナーを吸って困っている。」と聞いたほか、「被告人がやばいことしてきたんや。」などとも聞いたとしているが、右のうち、前者は、シンナーを吸っている被告人らを明美の部屋から追い出してくれとの依頼であり、他方後者は、何か事件を起こした被告人の処置について相談するという趣旨を含むものであるから、右各発言内容が、相互に異質なものであることが明らかであり、これを同時に乙川が言ったというのは理解し難いことである。また、乙川供述を前提とした当時の同人の立場からすると、同人は、殺人を犯したと言って身体に血を付けて自分の下に来た被告人の処置に関して丁海に相談しようとしていたことになり、そうすると、最初からその旨丁海に申し述べるのが自然の推移であって、殊更、「被告人を含む何人かが明美の部屋でシンナーを吸って困っている。」などと丁海に述べる必要性は何ら存しないというべきであり、この点乙川供述との齟齬が見られるところでもある。

更に丁海の公判証言によると、同人は、メゾンゆずり葉二〇一号室に着いてからの自己の言動に関し、事前に乙川から被告人を追い出してくれとか被告人がやばいことをしたとか聞いていた上、被告人の胸元や首筋に血が付いているのを目の当たりにしたとしながら、検察官の主尋問に対しては、「被告人に『どうしたんや。』ということを言うと、被告人から言葉は返ってこなかった。被告人はシンナーでいわゆるラリった状態だった。また丙沢明美は自分の女だったので被告人に『何で黙って入っているんや。』とも言った。」と証言し(〈証拠〉)、裁判官の補充尋問に対しては、「メゾンゆずり葉では被告人にどうしたんやなどとは聞いていない。乙川にどうしたんやと聞くと、同人はけんかしたんやとだけ言っていた。」と証言している(〈証拠〉)。右のとおりメゾンゆずり葉に着いてからの被告人に対する言動につき証言自体不自然に変遷しているし、事前に乙川から聞いた話の内容や被告人の血を付着させた異常な姿を見たことからすると、被告人の様子に関心を抱くと共に被告人に一体何があったのか問い質し、乙川の言う「やばいこと」の内容を知ろうとするのが普通であり、右証言以上にそのような行動をとらなかったというのは、当時丁海において覚せい剤を使用することで頭が一杯だったとか、被告人がシンナーの影響でまともではなかったとかの一応の説明が加えられていることを考慮しても、あまりに不自然といわなければならない。

そして、シンナーを吸っている被告人らを部屋から追い出してくれと乙川から言われたとすれば、これについても何らかの行動を取って然るべきと思料されるのに、被告人に何で黙って入っているんやと言ったとする証言があるのみで、それ以上のことをしたとの供述がなく、この点も不自然というべきである。

③ 被告人の言動等について

丁海証言によると、メゾンゆずり葉にいた被告人は、その首筋と上着の胸元に血を付けていたとしているが、乙川が岩沢らと共に被告人をメゾンゆずり葉に連れてきてから、丁海が同所に来るまでには既に三時間近く経過していたはずであるから、殺人を犯した被告人がそのような姿のまま、自己の犯行の痕跡である血について何ら対処することなく、漫然と過ごしていたとは到底考えられないことであり、同様に被告人が丁海に言われて初めて台所まで首筋の血を洗いに行ったというのも著しく不自然な供述というべきである。

また、メゾンゆずり葉における被告人の言動に関する丁海証言は、他の関係者の供述と同様、被告人はシンナーを吸って茫然としているとするのみであって、臨場感や実在感に乏しいものである。

④ 血を洗いに行かせた状況に関する供述について

丁海の公判証言によると、結論的には、メゾンゆずり葉で被告人をして台所へ首筋の血を洗いに行かせたとしているところ、この点に関する同人の証言を子細に見ると、検察官の主尋問に際し、「(まずどこを洗いに行かせたんですか、との問いに対し)どこって、ともかく自分が言って……、初め気が付いたのはやっぱり胸元です。」、「はっきりとは覚えてないんですけど、首筋もあったように思います。それで、やっぱり汚れているから自分は洗いに行かせたんです。」と証言し(〈証拠〉)、次いで弁護人の反対尋問に際し、「(どこが汚かったんですか、との問いに対し)やっぱり目についたから、それは誰でも洗わせるんじゃないんですかね。」、「(だからどこの部分が汚かったから洗いに行かせたの、との問いに対し)胸元の印象が強かったから。」と証言した上、弁護人から「胸元というのは洋服でしょう。」と追及されるや、洗いに行かせた部位に関する証言が曖昧になり、「洗いに行かせたのは間違いないです。」と証言するに止まっているものである(同速記録37丁裏から38丁表)。右のように、洗いに行かせた血の付着箇所について、いずれも胸元の血であると一旦証言し、その後検察官の主尋問に対しては首筋の血であると訂正したものの、弁護人の反対尋問では結局曖昧な証言に終始しているところ、被告人に付着した血を見てこれを洗いに行かせたというのであるから、その部位について記憶違いをするようなことは考えられず、果たして、真実そのようなことを体験したのか疑問を入れる余地があるといわなければならない。

⑤ 他の関係者の供述との不一致点について

前述したように、丁海証言のうち、第一に、西山会事務所に乙川の居場所を問い合わせる電話をかけてきた人物の特定に関する部分、第二に、メゾンゆずり葉に向かう際に乙川から聞いたという被告人についての話の内容に関する部分(すなわち、被告人が殺人を犯したと言っている旨を聞いたかどうかの点)、第三に、事件の翌日に乙川や被告人と一緒に白色スカイラインを佐藤三郎方まで返しに行ったかどうかに関する部分が乙川供述と食い違っている上、メゾンゆずり葉二〇一号室に乙川と来た際に、同部屋に丙沢明美と被告人のほかにもう一人いたとしている部分が乙川及び丙沢明美供述と食い違っているところである。

右各食い違いは、一方では丁海証言が、これらの点について乙川や丙沢明美の供述に必ずしも迎合しているものではないことを示していると見ることも可能であるが、他方、いずれも些細な食い違いではなく、その食い違いが生ずるに至った合理的理由も見出せないのであって、結局、各人の供述の信用性を減殺する事情であることは否定できない。

(4)  以上のとおり、丁海証言は、重要な点で変遷しており、その変遷に合理的理由が存しないこと、証言自体曖昧な箇所、不自然な箇所が見られること、関係者の供述とも矛盾する箇所があることの諸点に徴すると、同証言の信用性を是認することはできず、また、乙川等関係者の供述の信用性を裏付けるものとも到底いい難いものである。

7  鈴木(旧姓田中)みゆき供述について

鈴木みゆきは、62.4.13検面において、「三月二〇日早朝ころ、被告人が左右どちらかの大腿部に点々と血を付けた姿でエレガント春山まで来た。被告人を同室で寝かせてやったが、寝ている被告人が大声を出したので気味が悪いと思った。」などと供述しているが、同女の証言(25回公判)では、被告人を泊めた時期やその大腿部に血を付けていた点などが曖昧となり、供述が大きく変遷していること、そもそも殺人を犯した人物が血を付けたままの姿で早朝にうろうろすること自体考え難いこと、乙川供述によると、被告人は当時胸にも大きな血を付けていたというのであるから、より目立つはずの胸の血に同女も気付かなければならないと思料されるのにその旨の供述がなされていないことの諸点のほか、同証言によって窺われる同女に対する取調状況を併せ勘案すると、右検面の信用性を直ちに肯定することはできず、これをもって、乙川や丁海供述の裏付けと見ることは相当ではない。

8 以上に検討したとおり、各関係者の供述の信用性については、幾多の重大な疑問があり、結局、これらをもって、被告人と本件犯人との同一性を認定するについては合理的な疑いを容れる余地があるものといわなければならない。

四  被告人と被害者との接点の有無について

本件発生以前に被告人と被害者との間で交遊等の接触があったか否かは、前述のとおり本件犯人が被害者と顔見知りであり、夜間被害者が一人でいることを知っていた可能性が高い上、乙川清、中川二郎の各供述では被告人と被害者との間に親密な関係があったことが前提とされており、その事実の有無如何が右各供述の信用性判断に大きな影響を与えると思料されることからも、本件における重要な争点である。

そして、被告人は、一貫して被害者との一切の接触を否認しているところ、両名の接点の存在を裏付ける証拠としては、一原満の公判証言と乙川の供述があり、その各信用性を検討しなければならない。

1  一原証言について

一原満は、公判廷(10回)において、「昭和六一年二月二〇日前後ころの夜、姉の一原由美と親しく付き合っていた被告人が由美を訪ねて当時の自宅である『みゆきハウス』に来たことがあり、被告人、由美、由美の友人斉木夏子、自分、その友人今田四夫の五人で被告人運転の車でドライブに出かけ、共福運輸の駐車場で車を停めてシンナーを吸っていたところ、運転席の被告人が後部座席にいた自分に対し、振り向きながら『女の子を紹介してくれ。』と言ったので、自分の女友達の友人で三回位その家に行き電話も二〇回位したことがある被害者を紹介することにし、その名前、電話番号、豊岡にある団地に住んでいることを教えた。その際、被害者が母親と二人暮らしであること、母親は夜は勤めていて帰宅が遅いので午後一〇時か一〇時半ころに訪ねると都合がいいこと、被害者がシンナー遊びをすることなども教えた。」と証言している。

右証言については、被害者の名前や電話番号等を被告人に教えたとしている点を除いて被告人自身もほぼ認めるところであるし(この点に関する被告人の供述のうち、被告人が一原に女の子を紹介してほしいと言った場所について若干供述が動揺し、曖昧になっている。)、内容も具体性を有し、一見その信用性を肯定しうるかのようである。

しかしながら、第一に、一原証言の内容を子細に見ると、同人が被害者の名前や電話番号等を被告人に教えた際の具体的な状況については、運転席に座ってシンナーを三〇分間弱吸っていた被告人に対し、後部座席から口頭で被害者の名前等を告げただけであり、被告人の方からその名前や電話番号を聞き返したり、確認したりしたことはなく、被告人がこれらをメモしたことも見ていない、また被害者の名前等を伝えた際被告人は前を向いていたというものであるところ、シンナー吸入による精神活動の低下等の影響をも考慮すると、被告人が口頭で一度だけ聞いた被害者の名前や電話番号等を正確に記憶することができるかどうかは大いに疑問であり、右のような方法で教えたという同証言自体若干の不自然さが看取されること、第二に、被告人が一原の紹介により本件発生までの一か月弱の期間中に被害者に電話するなどして接触を持ち、被害者方へ出入りしていたとすれば、電話番号等のメモなどこれを裏付ける何らかの物的証拠やこれを見聞きした人証が存在して然るべきと思われるが、被告人はもとより、被害者の身辺からもそのような物的証拠は一切発見されておらず、また、両名の交遊に関してこれを目撃したり聞いたりしたという証人も一切現れていないこと、第三に、一原証言によると、同人は、本件発生直後に被害者の交遊関係者の一人として警察官による事情聴取を受け、三月一九日の同人のアリバイと被害者の交遊者を聞かれたが、当時は被告人のことを忘れていて話さず、その後約一〇か月が経過した昭和六二年一月ころ、警察官から再び本件に関して事情聴取を受け、警察官から「さっき言った車でどこかへ行って、被告人に教えたことがあるんじゃないか。」と言われて初めて被告人に被害者の名前や電話番号等を教えたことを思い出したとしているところ、事件直後の事情聴取は、同人が被害者を被告人に紹介してからまだ一か月弱しか経過していない時期に実施されており、一原証言を前提とすれば被告人については新鮮な記憶が残っていたはずであると考えられるし、被告人のほかに被害者を紹介したという岸本五夫と町某の二人については、いずれも被告人に紹介した昭和六一年二月よりも前に被害者を紹介したとしながら、事件直後の事情聴取の際にその各名前を出しているのであって、被告人についてのみ記憶がなかったというのは不自然というべきであることの諸点をその信用性を減殺する事情として指摘せざるを得ず(なお、再び事情聴取を受けた際に取調べ警察官から示唆されたという「さっき言った車でどこかへ行き、被告人に教えたことがあるんじゃないか。」との内容自体唐突の感を免れず、そういう示唆がなされた経緯について何ら首肯するに足りる説明がなされていないものである。)、結局、以上の事情に徴すると、一原証言に全幅の信頼をおくことは相当ではなく、同証言をもって、被告人と被害者との接点の存在を裏付けるに足りるものということはできない。

2  乙川の供述について

乙川は、本件発生以前における被告人と被害者との関係につき、変遷があるものの、「昭和六一年三月上旬ころ、被告人から、シンナーがあれば△△中学の女を誘えるのでシンナーが必要だと頼まれ、被告人と一緒にタキヨ商事に行ってトルエン一斗罐を盗み出した。その日にゲームセンターへ行った際に被告人が被害者方に電話し、被害者方の電話番号が○○―○○○○と聞き、また被告人が被害者と肉体関係を持ったことがあると聞いた。同日、女友達の高橋春子方に行く途中、××団地の傍を通った際、被告人は、『シンナーで誘おうとしている女はここに住んでいるんや。』と言っていた。その後、被告人が斉藤一夫らと一緒に被害者を強姦したことを聞いたが、その際被告人から被害者の名前が甲野智子であると聞き、被告人の黒い表紙の手帳に被害者方の電話番号○○―○○○○が記載されているのを見た。」と供述している。

しかし、乙川の供述全体がそもそも信用性に乏しいことは前述したとおりである。右被告人と被害者の交際状況に関する供述についても、被告人と一緒にタキヨ商事でトルエンを盗み出したこと自体は被告人も認めるところであるが、その時期については大きく供述が変遷していることや黒い表紙の存在について全く裏付けがないことなどから見て、これを信用することはできないというべきである。

以上のとおり、本件発生以前における被告人と被害者の接点の存在については、証拠上、これを認めるに足りないものである。

五  事件発生後の被告人の言動について

検察官は、被告人において、事件発生の数か月後の時期に友人の菅谷六夫に対し、本件が自己の犯行であることを示唆するような発言をしていると主張しているので検討する。

この点に関する右菅谷の公判証言(20、21回公判)は、(1)「自分は、器物損壊や傷害罪で身柄を拘束され昭和六一年七月三日に釈放されたものであるが、同月七日ころ、被告人から電話があり、その会話の中で被告人が『本件のような事件で犯人が挙がると何年位刑をつとめなければならないのか。』と言ったので『大体七、八年くらいか。』と答えると、理由はわからないが被告人がしばらく電話口を離れた様子があった。電話を切るころに、被告人は、『逃げたい。俺は逃げるわ。』と言った。そのほか、『精神異常者の犯行なら罪にならないんじゃないか。』と言っており、『このまま俺がアホだったら警察に疑われなくて済むんじゃないか。』という趣旨のことも言ったと思う。」、(2)「次いで、同年九月か一〇月に、福井県立精神病院に入院中の被告人から電話があり、『あの殺人事件はどうなったんだ。』と尋ねてきたので『まだ犯人はわからないんじゃないか。』と答えると、『ああいう事件は本当はなかったんじゃないのか。空想の事件じゃないのか。』と言った。」、(3) 「更に同年一二月二〇日ころ、同病院に入院中の被告人から電話があり、被告人は仲川一郎が逮捕されたことを知っていて同人がどうなったか聞いてきたほか、『乙川の言ったことで自分が疑われているんじゃないか。』とも言っていた。」というものである。

これに対し、被告人は、昭和六一年七月二日から同年八月一〇日ころまで鯖江市のみどりが丘病院に入院中だったが、同病院から菅谷に電話した覚えはなく、したがって、同人と右(1)のような会話をしたことはなく、また、同年九月一八日から翌年一月八日まで県立精神病院に入院し、同病院から菅谷に何度も電話をしたことがあり、同人に本件のことを聞いたと思うが、同人の答えは覚えておらず、その際、自分が「ああいう事件は本当はなかったんじゃないのか。空想の事件じゃないのか。」などと言ったことはない、と供述しているが(34回公判)、被告人の発言に関する菅谷の前記証言内容は、具体的で臨場感があり、体験していないことを想像で述べたものと見ることは相当ではなく、言葉の細部や趣旨について完全に被告人の述べたとおりかどうかについて若干問題があるとしても、基本的には、その信用性を肯定すべきものと考えられる。

しかしながら、この種の言動については多義的な解釈が可能である。まず前記(3)の発言については、当時被告人において、乙川の供述により警察が本件犯人として被告人に容疑を抱き、自己が捜査の対象となっていることを知っていたというのであるから、そのような者の発言として十分了解可能である。また、前記(1)のうち本件犯人が検挙された場合の量刑に関する発言部分と前記(2)のうち本件捜査の状況を尋ねたという部分については、事件の内容、その後の捜査経過から一般市民としてもその程度の関心を持って話題にすることがあっても不自然ではない事項と考えるのが相当である。

次に前記(1)のうち、被告人が「逃げたい。俺は逃げるわ。」と言ったとする部分については、これが菅谷から本件犯人は七、八年刑をつとめなければならないだろうという話を聞いた結果なされたものとは、菅谷証言によっても認めるに足りず、却って同証言によると、単に病院から抜け出したいとの趣旨の発言と解することも可能である。

そこで、前記(1)のうち「精神異常者の犯行なら罪にならないんじゃないか。」、「このまま俺がアホだったら警察に疑われなくて済むんじゃないか。」という趣旨の発言及び同(2)のうち「ああいう事件は本当はなかったんじゃないのか。空想の事件じゃないのか。」という発言が問題となり、被告人が本件犯人ではないとすると、このような発言をすることが不自然ではないかとの疑問が生ずるところ、前記のとおり、被告人自身昭和六一年四月にシンナー常習者として本件に関して取調べの対象になり、警察官から事件当夜のアリバイ等を聞かれた経験を有していたことが認められ、また、右発言当時、被告人は精神病院に入院中でありその精神状態が幾分不安定であったと推認できることを併せ考慮すると、右各発言内容は本件事件発生当時シンナーに耽溺しており、しかも本件に関して取調べの対象となった者が心許せる友人に不安な心理状態を露にした表現とも解されるのであって、本件犯人ではない者の発言としては了解不能と断定することはできないというべきである。

よって、この点に関する検察官の前記主張は理由がなく、採用することができない。

六  毛髪鑑定について

検察官は、本件犯行現場である被害者方奥六畳間に敷かれた電気カーペット用上敷から被告人の頭毛が発見されており、右は被告人と本件犯人の同一性を裏付ける有力な物証であると主張し、一方弁護人は、そもそも毛髪鑑定に関する現代の水準は資料の由来が同一であることを確定するまでには至っていないこと、検察官の主張に沿う捜査段階の鑑定は信用性がなく、これと異なる裁判所が命じた鑑定の結果こそ採用すべきであることなどを主張している。

そこで、以下、毛髪鑑定の限界及び両鑑定の内容について検討を加え、また、犯行現場から採取され、右各鑑定に供された資料がそもそも本件犯人の特定にどの程度の意味を有するのかという点についても検討を加えることとする。

1  毛髪鑑定の限界について

まず、毛髪鑑定によって鑑定資料たる個々の毛髪が同一固体に由来することを確定することができるのかどうかについては、当裁判所が取り調べたこの点に関する諸文献には、「毛は長い間皮膚紋理のように、個人識別の手段と考えられてきた。しかしヒトの毛の構造は予言しうるほど一定のものではない。すなわち同一の部位の中で、一本の毛は通常他の毛とは相違があり、同一の毛においてさえも異なる部では異なる構造を呈することがある。色調、直径、毛小皮および毛髄のいずれにおいても、個々の毛はその部位によって異なっている。それゆえまれな特異体質の場合を除いて、毛の構造は個人識別のてがかりとして用いることはできないし、またすべきでもない。」(元横浜逓信病院院長小堀辰治、前オレゴン霊長類研究所所長W・モンタグナ監修「毛の医学」三三ページ)、「肉眼的または顕微鏡的に頭毛から個人識別を行うという考え方は以前よりあるが、不可能の場合が多い。毛幹部の幅、髄質の占める割合、含気量や形態、皮質の含気量、色素沈着の程度、毛小皮紋理の特徴などを根拠にした分別法があるが、同一人の頭毛のなかでも性状がかなり異なっている場合があるので、なるべく沢山の頭毛を分析し、その結果を統計的に調べるという方法で、ある程度の推測を行っている程度のものと考えておいた方がよい。

(中略)

最も信頼のおける個人識別は毛髪に付着しているゴミや、病変および人工的な修飾などであり、このために発光分析やニュートロン・アクティベーション法による毛髪中の金属元素の定量分析法が利用されている。とくにニュートロン・アクティベーションではかなり個人差がはっきりすることがガンマ・スペクトロメーターの分析結果で判明しているが、現在の段階ではまだ指紋のようにはっきりとした結果は得られていない。とくに頭毛には通常あまり存在しないCo(コバルト)、Se(セレン)、W(タングステン)などが多量に検出される場合には、個人識別として利用できる可能性がつよい。」(帝京大学医学部教授石山昱夫編集「現代の法医学」一九三ページ)などの記述があり、いずれも個人識別方法としての毛髪鑑定については消極的、限定的な評価を下していることが明らかである。

更に証人木村康(千葉大学医学部法医学教室教授)は、当公判廷において、「現在、異同識別で、同一人のものかどうか決定できないというのは、学会の中の常識です。その理由というのは、まず毛というのは、同一人の毛の中でも、いろいろと色の上でも違っているし、それから太さも違っておるし、いろんな比較する点がありますけれども、すべてそういうものにはいろんな偏り、幅があるということですね。(中略)似ているとはいえても同一人とはいえないということです。」と証言し(29回公判)、また同人作成の鑑定書中にも、「現在、毛髪の鑑定では異同識別で同一人のものか否かを決定することはできない。高度な性能を有する機器による元素分析も行われて努力されてはいるが、まだ一個人においてもその数値に変動幅があり、これらの成績を総合しても同一人の毛髪と断定することはできない現状である。したがって多数の比較点で同じ所見が見られた場合は酷似すると表現し、かなり似ている場合は類似すると表現している。」(同鑑定書四ページ)と結論付けた部分があり、これらはいずれも前記文献と同一の立場をとるものと考えられる。

なお、証人佐藤元(警察庁科学警察研究所技官)は、当公判廷において、「(『毛髪鑑定の手法に対して似ているという分類はできても、それで同定はできないという批判が学会内であったのではないか。』との質問に対し)そういうことを書いてある人は知っています。それについて反論させていただきたいんですが、まず、毛髪の鑑定について読まれた本というのは法医学の本だと思います。特に法医学の一分野ですね、あくまで毛髪は。それから世界的に見た場合に、毛髪の鑑定に関して法科学という別の分野があります。その中の法生物学というところに書いてあります。したがって、そういう分野においてはできると解釈しております。しかしながら、法医学の先生方においては、毛髪等の研究をやっている方は少ないです。したがって、そういう先生方がどういう書物を読まれたか、あるいは本を書かれているか分かりませんけれども、そういう経験の中ではできないんじゃないかと思われても、それは構いません。しかし、我々はできると解釈してやっております。」と証言し、毛髪鑑定による個人識別は可能という趣旨のことを述べているが、毛髪鑑定が法医学の分野に属するのかあるいは法科学ないしは法生物学の分野に属するのかは本質的な論点とは思われず、その理由とするところは必ずしも明確ではなく、説得力に欠けるものというべきである。また、同証人は同時に、「毛髪鑑定は、基本的には鑑定人が総合判断をするので確率的な手法が入る余地がなく、確率的検査もできない、したがって一般的には絶対確実だとはいえない。」としたり、また、「対照資料について異同識別をし、ある人のものと考えていいほど似ているという結果を得るのであって、あくまで個人識別と言われると私は答えられない。」としているのであって、結局、毛髪鑑定による個人識別については限界が存することを自認しており、前記の木村証人らの見解とは程度の差があるにすぎないと見ることも十分可能である。

右各証拠のほか、関係各証拠によって認められる現在の毛髪鑑定の手法等に徴すると、毛髪鑑定については、指紋のように絶対的に個人を識別することはできないものの、各種の手法を総合利用することにより、条件次第では、対照資料の由来の同一をかなりの確度で示すことはできるものと思料するが、絶対確実というものではないから、鑑定結果のみを唯一の決め手として判断を下すことは危険であって許されないものというべきであり、あくまでも個人識別にあたって有力な補助的役割を果たすものと解すべきものである。

2  各鑑定の内容等について

(1) 各鑑定の結論について

犯行現場である被害者方奥六畳間に敷かれていたカーペット用上敷から採取された人の頭毛九七本(以下「遺留毛髪」という。)と被告人の頭毛との同一性につき、科学警察研究所警察庁技官佐藤元ほか一名作成の鑑定書及び証人佐藤元の公判(13回)証言(以下「佐藤鑑定」ということがある。)は、右九七本のうち鑑定資料(1)―46と57の二本は、形態学的検査、血液型検査、元素分析の結果を総合して、被告人の頭毛と同一人の頭毛であると考えられると表現し、その表現は同一性を示す一番高い表現方法であるとしており、他方、当裁判所が鑑定を命じた千葉大学医学部法医学教室教授木村康は、右鑑定資料(1)―46と57の二本の毛髪は、鑑定資料(3)の毛髪(被告人の毛髪)とその形状、肉眼的色調等類似する点が多いが、色素顆粒の系統が異なるので、酷似するとは断定しえず、したがって鑑定資料(1)―46と57の毛髪は資料(3)の毛髪とは由来が異なる、としている(同人作成の鑑定書及び同人の公判証言。以下「木村鑑定」ということがある。)。

(2) 各鑑定に対する評価について

右のように、本件では相対立する鑑定結果が提出されているところ、まず、佐藤鑑定は、第一段階で、遺留毛髪と被告人の毛髪との形態学的検査を実施して、色調、髄質の出現形態、太さ、長さ、形状などにおいて極めてよく類似するものを選別し、第二段階で、右選別に係る毛髪について血液型検査を実施して同一のものを絞り、第三段階で、血液型の一致したものについて元素分析を実施し、これらの結果を総合して前記結論を導いたというものである。

しかし、血液型(ただし、右佐藤元の証言によると、毛髪については現在ABO型による分析しかできないことが認められる。13回公判・速記録43丁裏)が一致することは当然のこととして、同鑑定が右結論を導くにあたって最も重視しているのは、佐藤証言(同速記録43丁表、94丁裏等)及び右佐藤元ほか三名作成の科学警察研究所報告法科学編「毛髪の異同識別における肉眼的検査所見の検討」の冒頭部分によると、第一段階の形態学的検査であると認められるところ、右形態学的検査については、まず、形状と色調については、右科警研報告では、個人内での変動性が大きいとされており、また、太さについては、右佐藤元ほか四名作成の科学警察研究所報告法科学編「毛髪の異同識別における測計的検査所見の検討」によると、個人内の変動と個人間差がほぼ類似しており、その異同識別への応用には十分な注意が払われるべきであるとされていること、長さについては、右後者の科警研報告では、個人内の変動が極めて大きいとされている上、各対照資料の採取時期が異なればデータとしての意味がないと考えられること、髄質の出現形態については、佐藤鑑定によると、連断続状、点続状、点断続状、無髄などの表現により分類されているものであるが、これによって判明するのは、個人につき、無髄が多い、連続状のものが多い、連断続状のものが多いとかいういわば当該個人のこの点に関する傾向であるにすぎないものと認められること(同速記録26丁表)の諸点を勘案すると、いずれの検査項目についても毛髪の異同識別の決め手と見うるものとはいえないことが明らかである。

更に元素分析については、右佐藤証言では、「(元素分析は)あくまで第三番目の検査です。元素分析で類似のパターンが出たり、数値が出たりしても、かなり客観的とおもわれますけど、我々はその程度の受け止め方しかしておりません。」とされており(同速記録94丁裏)、同鑑定人自体、元素分析によって得られたデータを毛髪の異同識別にあたってさほど重視していないとも考えられるところである。また、木村鑑定も、前述のとおり、「高度な性能を有する機器による元素分析も行われて努力されてはいるが、まだ一個人においてもその数値に変動幅があり、これらの成績を総合しても同一人の毛髪と断定することはできない現状である。」としていることを併せ考えると、元素分析によって得られた各データも毛髪の異同識別について、大きな意味を持つものではないことが明らかである。

したがって、佐藤鑑定の結論は被告人の頭毛と同一であると断定しているものではないが、同一性を示す一番高い表現であるというその結論は、直ちに採用することはできないものというべきである。

次に、木村鑑定については、同鑑定の理由とする色素顆粒の色系統の差が毛髪の異同識別にあたって果たして有効なのかどうかが問題となるが、木村証言によると、同教授は昭和五二年から右検査方法を実施しており、個人の毛髪の色素顆粒の色が赤褐色系と黄褐色系に分類され、これが同一固体では均一であるということではこれまでに例外がなく、実際の捜査においても実績を挙げたことが認められ、右検査方法が学会等で一般的に承認されたものかどうか若干問題が存するものの、少なくとも資料の由来を異にするという結論を導くに際しては、右鑑定の手法自体の有効性を排斥することはできず、したがって、木村鑑定の結論を直ちに否定することはできないものといわなければならない。

3  鑑定資料とされた毛髪の採取状況と電気カーペット用上敷の使用状況について右各鑑定の信用性と共に鑑定資料とされた遺留毛髪が果たして本件犯人の特定についてどの程度の意味を有するのかが問題となる。

本件事件発生後直ちに、警察は、犯行現場における採証活動を開始し、昭和六一年三月二〇日午前二時三〇分から同日午後四時五〇分までの長時間にわたって実況見分並びに検証を施行し、指紋・足こん跡等の採取と共に、毛髪様のものを死体左大腿部付近から一点、4.5畳間ベッド下の畳上から二点、同中央付近畳上から一点の計四点を採取したが、更に犯行現場に敷かれて被害者が倒れていた電気カーペット用上敷について徹底した微物採取が必要であるとして、これの任意提出を受けて持ち帰り、同年四月四日にルーペ、ピンセットを使用して徹底的に微物採取を行った結果、他の微物と共に毛髪類約二〇〇本を採取し、これについて同月七日ころ更に分類し、人の頭毛と推定されるもの九九本を検出し、これを翌六二年五月二二日付警察庁科学警察研究所への前記鑑定嘱託の際の資料としたことが認められる。また、右毛髪類が右カーペット用上敷のどの部分から採取されたかは特定できず、「カーペット用上敷に落ちていたというか、あるいは突き刺さったものも大体すべて集めた」ものであることも明らかとなっている(〈証拠〉)。

右カーペット用上敷は、被害者方奥六畳間の中央に敷かれた電気カーペットの上に敷かれて日常使用されていたものである。被害者はシンナー常用者と交遊があり、同人方にはこれらシンナー常用者やその他の友人の出入りがかなりあったことが一原証言などによっても窺われ、同人もテレビのある部屋でごはんを食べながらテレビを見ていた状況を証言しているのであって、犯行現場にも平素かなりの人の出入りがあったものと推認できる。

以上の現場遺留毛髪の採取状況、電気カーペット用上敷の使用状況、遺留毛髪と本件犯行との直接的結び付きが明らかでないことなどを総合すると、前記鑑定資料中の二本の頭毛が現場に遺留された時期は確定できず、また、仮に右二本の頭毛が被告人のものであるとしても、被告人と接触のある人物に付着するなどして犯行時までの間に現場に遺留される可能性も否定できず、右二本の頭毛の存在をもって本件犯人と被告人との同一性や関連性を直ちに認めることはできない。

4  以上のとおり、犯行現場に遺留された毛髪の中に被告人のものが含まれるとの検察官の主張は理由がなく、また、右遺留毛髪自体、本件犯行との結び付きが明らかではなく、結局、本件においては、犯人と被告人との同一性を裏付ける物証は存在しないものといわざるを得ない。

七  アリバイの成否について

1  弁護人は、昭和六一年三月一九日午後九時四〇分ころの本件発生時には、被告人は、自宅で、母、祖父、姉夫婦らと夕食を共にしており、アリバイがある旨主張している。

右アリバイ主張に沿う証拠としては、被告人の公判供述のほか、証人前川秋子(17、18公判)及び同前田治寿(18回公判)の各証言があり、右前川秋子(以下「秋子」という。)の証言内容は、大略、

「三月一九日は、『指定8』あるいは『マル8』(八週間に一度の指定休という意味)とも呼ばれる、当時の勤務先である湊保育園の公休日であった。被告人は、昼ころに起きたが、シンナーの臭いがしたので困ったと思い、被告人の姉夫婦を夕食に誘うことにし、前田恭子方にその旨電話連絡し、近くの中華料理店「ケーエフ」に電話で鳥の唐揚げ、レバニラ炒め、マーボ豆腐、カニ玉、酢豚などの料理を注文した。夕方、右恭子とその夫前田治寿が子供を連れて自宅に来たので、右「ケーエフ」に行って注文した料理を受け取り、午後七時すぎから、被告人、祖父、恭子夫婦らと食事を始めた。夫前川次郎は、午後八時か九時ころ帰宅し、恭子らは午後一二時から翌日午前一時ころの間に帰った。翌二〇日は、年休を取って保護観察所に行くこととし、午前八時すぎころ前記湊保育園に年休を取る旨電話連絡した上、午前九時ころ出かけた。その際、被告人は自宅で寝ており、午前中に帰宅したときもまだ寝ていた。」というものであり、また、右前田治寿(以下「治寿」という。)の証言内容は、大略、

「三月一九日夜、自分たち夫婦と子供、被告人、その母親、祖父らと被告人方で食事をした。その際、『ジャンプアップ青春』というテレビ番組を見て被告人と好みの女優について話し合った記憶があるので、その日は水曜日である。また、子供のいない所でたばこを吸うため被告人と二人で玄関まで出たときに、被告人から高橋春子という女性を輪姦して暴力団玉川組との間で揉めていることを聞いた。」というものである。

2  そこで、右各証言の信用性を検討するに、まず、秋子証言は、被告人らと食事をした日の特定の根拠として、当日が「指定8」などと呼ばれる八週間に一度の指定休だったことなどを挙げており、その供述内容も詳細であって、相当な根拠があるとも考えられるが、第一に、中華料理店「ケーエフ」の経営者藤野憲司の証言(〈証拠〉)及び押収してある六一・三・一九付売上レシート及び注文伝票一綴(〈証拠〉)によると、同店では、客が店内で食事をする場合と料理を購入して持ち帰る場合のいずれについても、伝票に、注文された料理の品目や数量等を記入し、同伝票に基づいて料理を作り、代金の支払を受けていること、その伝票は一日分毎にまとめてホッチキスで綴じているところ、昭和六一年三月一九日分の伝票一綴には、秋子証言にいう、鳥の唐揚げ、レバニラ炒め、マーボ豆腐、カニ玉、酢豚などの料理を持ち帰った客がいたことを示す伝票が存在しないことが認められ、この点は右証言と矛盾するものといわなければならないこと、第二に、同証言では、事件の翌日である三月二〇日は、全日休暇を取ったものとされているが、押収してある出勤簿一冊(〈証拠〉)によると、同証人の同日の休暇は、午前中だけの半日休暇であった旨記載されており、右出勤簿は市職員の出勤や休暇の状況に関する基本的文書であることを勘案すると、その記載事項の信用性は高く、他方、同日秋子は全日休暇を取っており、自らその旨保育日誌に記載したとの証人村中美須寿の証言(27回公判)は、右出勤簿の記載に照らして直ちに信用することができないこと、第三に、弾劾証拠として取調べた秋子の62.4.2員面には、事件当夜に治寿夫婦が自宅に食事に来たと思うが、何回となく自宅に食事に来ているので、その日に間違いなく来たとまでは言い切れず、他の休みの日だったかも知れないし、事件当夜から翌日の昼ころまでの間、被告人が自宅にいたとも、いなかったとも言えず、その点についても確かな記憶はないことなどが記載されていること、以上の諸点を秋子の証言の信用性を減殺する事情として指摘せざるを得ない。

また、治寿証言については、自分たち夫婦が被告人やその母らと被告人方で食事をした日が三月一九日であることの明確な記憶があるわけではなく、被告人の母がそのように言っているので、そう思っているとの証言部分もあり、更に弾劾証拠として取調べた治寿の62.3.20員面には、三月一九日にどうしていたかと聞かれても一年も前のことなので全く覚えていない、被告人のシンナー吸引がひどいということで被告人方に行き、食事等をしたことはあるが、その日が三月一九日だったとは言えない旨の記載があり、同様に治寿の62.6.22検面には、被告人方で中華料理を出してもらい被告人とビールを飲んだこともあったが、それが三月一九日夜のことかと言われると断言できる記憶は残念ながらない旨の記載があり、右の諸点に徴すると、食事をした日の特定に関する治寿の証言にどの程度信をおけるのか疑問があるというべきである。

加えて、竹澤勲男の62.7.3検面では、三月一九日夜の治寿の行動について、治寿は、勤務先のタキヨ商事の社長で父親でもある前田輝治、同社の常務、竹澤らと共に焼き肉店「月山」に行って午後九時ころまで同店で飲食し、午後一〇時ころに竹澤と別れたとされており、右供述は、右竹澤が当時の仕事に関する出来事や予定を記載した手帳(〈証拠〉)に基づいて当夜及びその前後ころの具体的な記憶を喚起した上でなされたものと認められる。すなわち、同調書では、右「月山」で社長の前田輝治が、同店経営者山本の妻に何かあったら連絡するように話をしており、翌二〇日右山本からタキヨ商事に電話があって竹澤がこれに出たが、社長が不在だったので当日の夕方社長に右電話の件を伝え、翌二一日、休日だったものの竹澤も社長も出社し、時間があったので右山本に電話して同人と会社近くの喫茶店「つどい」で会ったとしているところ、右はその内容から見て一連の事実として記憶に残っていたものと考えられる上、同手帳の三月二一日欄における「山本氏合うつどい。」との記載と一致するもので、その信用性は容易に否定できないというべきである。右に反し、右竹澤の公判証言(〈証拠〉)は、右山本と喫茶店で会った後の日に治寿らと「月山」に行ったもので、その日は三月二四日だと思うとしているが、右証言については、三月二四日夜に同店に行ったことを記憶していることにつき具体的な根拠を示していないほか、右手帳の三月のページ欄外に「24日夜暗渠排水の寄合」との記載があり、竹澤がこれに出席した可能性を否定できず、また同店に行った日の特定に関し曖昧な供述をしている箇所があること、警察官や検察官による事情聴取終了後、社長に「月山」に行った日を確認した際、社長から山本と会った後に行ったと言われたとしながら、その後警察官等に調書の内容が異なる旨の申告などはしなかったとしていること、取調当時警察官らから誘導等はなかったと証言していることの諸点に徴すると、前記検面の内容に反する右公判証言は信用することができない。

以上の諸点及び秋子が被告人の実母であり、治寿が被告人の義兄であるという両名と被告人の身分関係を併せ考慮すると、両名の各証言については、確実な裏付けがないものである以上、直ちに措信することはできないものといわなければならない。

なお、アリバイに関する被告人の公判供述については、被告人の捜査段階のアリバイについての供述内容に照らしても明確な記憶に基づくものとは考えられず、また、右秋子、治寿の各証言の信用性を裏付けるに足りるものではない。

3  以上のとおり、本件発生時ころ、被告人が自宅にいたとの事実はこれを認めるに足りる証拠はないといわなけばならない。

八  結論

以上の次第で、本件においては、犯行の直接の目撃者はなく、犯行現場に遺留されていたという前記毛髪二本の本件における証拠価値は前述のとおりで、これによって被告人が本件犯行当時犯行現場に居た事実が証明されたとすることは到底できず、そのほか本件事件が発生したころ、あるいはその数時間後に××団地内の現場付近やその他の場所で被告人がその着衣等に血を付着させているのを目撃したとか、被告人から本件犯行を犯した旨の報告を受けたとかの各関係者の供述があるが、これらも前述のとおりいずれも信用し難いもので、被告人と本件犯行とを結び付けるに足るものとはいえず、他に被告人が本件犯人であることを認めるに足る証拠もないから、結局、本件殺人の公訴事実については犯罪の証明がないことに帰するので、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡しをする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官西村尤克 裁判官丹羽日出夫 裁判官林正彦)

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